心と真我


C内なる目撃者をあらわにするには

前にも申し上げたように、悟りとは真我つまり我々の内なる目撃者を直接的に知ることである。我々の内なる目撃者を直接的に知るためにはまず、それをあらわにしなければならない。それがあらわになってはじめて、それを知ることが可能になるのだから。
そうすると、悟りを求めている人たちの次の関心事は当然、それをあらわにするためにはどうしたら良いのか? ということになるだろう。
我々の内なる目撃者をあらわにするための方法は一通りではないがその中でも、我々にとって一番受け入れやすいのは「モノを有りのままに見る」という方法ではないだろうか。なぜならその中には、見ることが含まれているから。
「モノを有りのままに見る」という方法の中には見ることが含まれているので、これを実践すれば我々の内なる目撃者があらわになる、ということに対して、違和感を持つ人はまずいないだろう。
それ以外の方法としては例えば、「絶対の今に居る」とか、「無為に徹する」とか、「一つのことに全面的に没入する」なんてのもあるが、こういう見ることが(直接的には)含まれてないような方法については、「こんなものがどうして、我々の内なる目撃者をあらわにすることに結びつくのか?」てな疑問を持つ向きがあったとしてもおかしくはない。
その疑問を解くためのヒントにもなろうかと思うが、「モノを有りのままに見る」ということも含めて、一見何の繋がりもなさそうに見える前出の方法すべてには実は、一つの共通点があるのだ。心を脇に置く効果がある、というのがそれである。もっと広げて言うと、前出のものに限らず、我々の内なる目撃者をあらわにするための方法にはおしなべて、心を脇に置く、という共通の効果がある。
この事実を逆から眺めればお察しいただけるはずだが、我々の内なる目撃者があらわになるのを妨げているもの即ち、それを覆い隠しているものは心なのだ。心こそは、それを見えづらくしているヴェールのような存在だと言える。
心を脇に置く効果のある方法がそのまま、我々の内なる目撃者をあらわにするための方法ともなり得るのは、そういう理由による。
このようなわけである方法が、我々の内なる目撃者をあらわにするための方法として使えるかどうかはひとえに、心を脇に置く効果があるか否か、という一点にかかっているのであって、その中に「見ること」が含まれているか否かは関係ないのである。
とはいえその一方で、数ある「使える」方法の中でも特に、我々に一番ピンと来やすいのはやはり、先ほども述べたように、その中に見ることが含まれている方法つまり「モノを有りのままに見る」という方法であるのもまた事実だ。だからここでは、「モノを有りのままに見る」という方法に的を絞って掘り下げてみたい。

D動いているモノを見よう

モノを有りのままに見ることを実践しようとする時、誰もが最初に考えるのは「見る対象は何にすべきか」ということだろう。が、基本的に、見る対象は何でもよい。
物的なもの例えば、眼の前の机とかイスとかでもよいし、心的なもの例えば、心の中の感情とかフィーリングとかでもよいし、それ以外でも例えば、呼吸とか何かに従事している時の体の動きとかでもダメってことはない。対象が何であれ、有りのままに見ることを通してあらわになる我々の内なる目撃者(真我)そのものに違いのあろうはずはないのだから。
が、ここでは、説明のしやすさという観点から、我々の眼に映る物的なモノを見る対象として取り上げることにしよう。
さて『柳は緑、花は紅』でも述べたことではあるが、この「モノを有りのままに見る」は「絶対の今において(即して)モノを見る」に置き換えることができる。その理由は言うまでもなく、ここでは簡単にしか申し上げないが、つまるところの意味はどちらも同じだからであり、つまるところの意味がどちらも同じであるのは、モノが存在している唯一の時間は絶対の今だからである。
そしてこの「絶対の今においてモノを見る」は実は、まるで言葉の置き換えごっこをしているみたいだが、モノが動いている場合に限って言うと、更にもう一つの別の言い方に置き換えることもできるのである。「現在位置においてモノを見る」というのが、それだ。
モノが動いている場合、「絶対の今においてモノを見る」を「現在位置においてモノを見る」に置き換えることができるのはこれまた、つまるところの意味はどちらも同じであるからに他ならないがその、つまるところの意味がどちらも同じになる理由については、皆さんの洞察力におまかせしましょう。説明するまでもないことだと思うので。
この、「絶対の今においてモノを見る」と「現在位置においてモノを見る」を比較してみると、つまるところの意味はどちらも同じとはいえ、前者よりは後者の方が具体的な分だけ取り組みやすい、という違いがある。ものは言いよう(言い換えよう)で取り組みの難しさが軽減されるってことの、これは一例である。
このようなわけで、「モノを有りのままに見る」ということを最も実効性の高い形で実践したかったら、動いているモノを見つけて、それを現在位置において見ることを試みるのが一番なのである。
ちなみに、動いているモノと一口に言っても色々あるが、我々にとって最も見つけやすいものの一つは車である。もしもあなたが、走っている車を使って前述のような試みをなさりたいのであれば、その車が走っている道は真っ直ぐか、それに近い一本道の方がやりやすいはずである。そしてその一本道は、あなたからご覧になって、近すぎず遠すぎずの程よい距離にある方がよいに決まっている。チト老婆心が過ぎましたかな。
いずれにしても、やってみればお分かりいただけるはずだが、走っている車に限らず、動いているモノを正真正銘の現在位置において見ることができている時というものは、心はまるごと(つまり顕在意識から潜在意識まで)脇に置かれているものである。即ち、粗大なレベルと微細なレベルとを問わず、いかなる想念も見るものと見られるものとの間に介在してはいないものである。見ているモノが走っている車だと想定した上で、具体的に申し上げるならば例えば、「カッコイイ車だ、俺も欲しい」とか「新しく出た奴かな?」といった思考もそこには無いし、また例えば、その車で恋人とドライブしている妄想やイメージもそこには無いし、また例えば、その車から受けるそこはかとない印象とかフィーリングなど感じる要素を含んだ微細な想念さえも、そこには無い。
これは取りも直さず、モノを有りのままに見るためには、心の奥深いレベルから出てくるような微細な想念でさえも邪魔になる、ということを物語っているわけだが、基本的に人は、静止しているモノを通してそこまでの理解に到ることはまずない。そこまでの理解に到る可能性があるのは、動いているモノを通して「モノを有りのままに見る」ことを試みている時だけである。
「モノを有りのままに見る」ことを試みるなら、静止しているモノよりも動いているモノを相手にすることをお薦めしたいのは、そのためだ。
Eに続く
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