心と真我


F心を脇に置く、ということについてのアレコレ

話が横道にそれるが、私は当サイトの中で馬鹿の一つ覚えみたいに、心を脇に置く(心を静止させる)ことを悟りへの道として提唱し続けている。
私が申し上げていることの全ては基本的には、それを裏付けるためにあるようなものだ。だもんで話が分かりにくくなったら、その一点から話を見つめ直していただいたら良いのではないだろうか。
それはともかく、どこかで述べたことの繰り返しになるが、前述のような文脈の中で私が心という言葉を使う場合それは、顕在意識のみならず潜在意識までも含めた心の全てを指している。
ところで潜在意識と言えば、ものの本によると、我々の体の内臓を動かしたり、血液を循環させたり、新陳代謝をさせたりして、我々の体を生かし続けているのは潜在意識なのだそうである。そりゃそうだろうな、と私は思うのだがきっと皆様方のほとんども、その説には反対なさらないだろう。我々はイチイチ顕在意識を使って「ああせい、こうせい」と内臓や循環器などに向かって指示を出しているわけではないしまた、そんなことをやろうたって、できるものではないのだから。顕在意識にそういうことができないとすると、そういうことをやっているのは潜在意識に決まっている。
で、ここで先ほどの話を補足させていただきたいのだが、悟りへの道として心を脇に置くことを、私が皆様にお勧めするのは何も、潜在意識のそういう働きまでも止めてしまえという意味合いにおいてなのではない。もちろん、そんなこともまた、やろうったってできる道理はないのだけれども、一応一回だけはこの点をハッキリさせておきたい、と思いましてね。万人に一人ぐらいは、そういう誤解をなさる向きがあるかも知れないので。
私の言う、「心を脇に置く」の意味は正確には、顕在意識と潜在意識の両方から来る想念つまり思考もイメージも感覚(感じ)も、自分の自覚の及ぶ範囲内で脇に置く、ということである。それは直接的には、無心にモノを見ている状態になるためのものなのだが、それによって無心にモノを見ている状態になれた時あらわになるのが、我々の内なる目撃者つまり真我であることは、これまで述べてきた通りである。
これに対しては、次のような問いをもたれる向きもあるかも知れません。
では我々は、真我をあらわにしている間は、何かを考えたり、イメージしたり、感じたりすることはできないものなのか、と。
答えを先に申し上げるならば、それは誤解である。真我をあらわにするために我々に求められるのは、何かを見ることにおいてのみ、思考やイメージや感覚を排除することなのだから。
重要なのはこの、何かを見ることにおいてのみそれらが求められる、という点である。それは言い換えれば、見る対象は物質的なものばかりではなく、思考やイメージや感覚などの心的なものであってもよい、ということに他ならない。それが分かれば、前述のような問いは出てこないのではないだろうか。
とはいえこれまで私は、話の内容を複雑にしたくないっていう配慮と、悟りに関する物事はいっぺんに全部は語れないっていう制約から、見る対象が物質的な場合のことばかりを語ってきたので、そういう誤解があってもおかしくはないな、という気はしている。
話は変わるが、前述のような意味合いにおいて心を脇に置くと、つまり全く何も想わなくなると、我々の中からあらゆるモノが消えて無くなるものだ。
例えば我々が認識しているものの中で一番でかいのは空間だが、そんなでかい奴さえも消えて無くなる。そしてその空間という名の囲いの中に居る個体としての自分もまた消えて無くなる。それらは我々の心の中にしか存在してはいないのだから。
一体全体我々が、何も考えず、何もイメージせず、何も感じてない時、どこに空間や私なんてものがあるだろうか。空間という囲いとその中に置かれている自分、といった構図は我々が心に抱く思考やイメージや感覚の中にしか、存在してはいない。だから、心を脇に置くや否や、そんなものは消えて無くなるわけである。
でも、「いや、心を脇に置いても、空間や私はちゃーんと存在してるよ」てなことをおっしゃる向きも、中にはあるかも知れませんね。
では、そんな方に質問させていただきましょうか。
前述のようなことを、あなたがおっしゃっている時、あなたが見ておられたのは実体としての空間や自分なのか、それとも心の中の空間や自分なのか? と。
僭越ではあるが、それに関しては私の方から先回りして、こう指摘しておきたい。まずあなたは、実際に心を脇に置くかわりに、心を脇に置いた状態を想像してみられた。そして、心の中に依然として残っている空間や自分を見ながら、こんな風に思われた。「なーんだ心を脇に置いても、空間や自分はちゃんと存在しているじゃないか…」
決め付けだと思われるなら取り合えず、この話は横に置いてもよい。が、それでも、空間や自分が在るとの認識は我々の心の中でのみ起こる、という事実は否定できないのでやはり前述のように、心を脇に置くと空間や自分は消えて無くなる、と申し上げるしかないのである。
同じ理由により、心を脇に置くと、時間とその流れの中に居る自分もまた消えて無くなる。
というわけで、時空の中に居る自分が頑張って、修行して、大きくなって、時空の外に出る、なんてことはないのだ。繰り返しになるがそもそも、時空もその中に居る自分も我々の心の中にしか存在していないので、我々が心を脇に置くと同時にそんなものは消えて無くなり、その結果として、はじめっから時空の外に居た本当の自分即ち真我が露呈する、というだけの話である。
Gに続く
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