心と真我


G世界は鏡像である

話を元に戻して、「モノを有りのままに見る」ということを更に掘り下げてみたい。
前にも述べたように、モノを有りのままに見る上で肝心なのは一切の想念を脇に置くことだが我々にとって、それが分かりやすいのは、見ているモノが静止している場合よりも動いている場合の方である。
おさらいを更に続けさせていただくが、見ているモノが動いている場合、「モノを有りのままに見る」と「モノを現在位置において見る」はイコールになる、という事実がその背景にはある。動いているモノを現在位置において見ようとすると、誰でも否応なく、想念という想念を脇に置く必要に迫られるからだ。この体験を通して我々は、モノを有りのままに見るためには一切の想念を脇に置かねばならない、ということを、理屈じゃないところで知ることができる。
さて実は、それとは別に、見ているモノが静止しているよりも動いている場合の方が、我々にピンと来やすいことがもう一つある。それは、モノを有りのままに見るためには意識とモノが一体化している状態にいなければならない、ということだ。
意識とモノが一体化している、というのは言い換えれば、どの時点においても意識とモノが同じ場所にあるってこと、あるいは両者の間に時間的空間的なズレが全く無いってことだがもし仮に、意識とモノがそういう形で一体化してなかったら、動いているモノを現在位置において見ることなど不可能だってことは、やってみれば誰の眼にも明らかである。
この体験は我々に、意識とモノが一体化している、ということもまた、モノを有りのままに見るための必要条件なんだってことを、これまた理屈じゃないところで教えてくれる。
ちなみに世間では、「眼が釘付けになった」なんて言い回しが使われることがあるがこれは、意識とモノが一体化している状態を表しているものと考えて間違いないだろう。ここに言う眼が肉眼を指しているわけはないのだから。
というわけで、モノを有りのままに見ることによってあらわになるこの意識つまり真我(我々の内なる目撃者)には、モノを見ている側面の他に、モノと一体化している側面もまた備わっていると言わざるを得ない。そして洞察してみればお分かりいただけるように、前者があれば必ず後者があり、後者があれば必ず前者があるところから、真我におけるこの二つの側面は不可分の関係にある、との見方もできる。
補足させていただくならば、真我(我々の内なる目撃者)は、我々が心に抱く思考やイメージや感覚などをも見る対象とすることができるので、ここに言うモノとは今話題にしている物質的なものばかりではなく心的なものも含んでいる、という点をお忘れなく。
話は変わるがその、モノと一体化している側面だけに着目すると、真我は鏡になぞらえることもできる。
鏡の役目はもちろん前にあるモノを映すことにあるがご承知のように、鏡とそこに映っているモノの間には時間的にも空間的にも、距離ってものが微塵も無い。間に髪の毛一本挟み込もうったって無理な話だ。
シモネタで恐縮だが、神様に拝んでナニを挟み込ましてもらったら、さぞやシマリが良かろうの、てなアッチ方面のことを妄想してらっしゃる向きがあったら、それは考えが甘すぎるというものだ。まず厚みをゼロにしてからでないと、あんなところには何も挟み込めやしないのだから。要するにそれぐらい、鏡とそこに映っているモノとの間には隙間が無いってことよ。
真我がモノと一体化している状態と、鏡にモノが映っている状態がそっくりだと言えるのはそのためである。その意味において真我は、世界やその中にある様々なモノを映す鏡のような存在として捉えることもできる。
我々が見ている世界やその中にある様々なモノは正に、真我という名の鏡に映る鏡像なのである。
どうかこれからは、そういう新しい認識のもとに世界を眺めていただきたいものである。世界がこれまでとは丸きり違って見えるはずだから。
世界を変えるのは簡単だ、認識を変えるだけで良いのだから、てなことを言ったのは三島由紀夫だったかと思うが(違ってたらすみません)、ここでもそれが当てはまる。
誤解なきようお断りしておくが、世界とは自分のグルリを取り巻いてる囲いみたいなものだ、と言ったこれまでの古い認識を捨てて、前述の如き新しい認識を持つことは、そうではないものをあたかもそうであるかのように自分に思い込ませる自己暗示的なものとは違う。
何故なら、世界は真我という名の鏡に映る鏡像である、というのはあるレベルにおいては真実なのだから。世界を真我という名の鏡に映る鏡像として認識することは我々の中に、その真実を顕在化させることにも繋がる。
Hに続く
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