心と真我


H絶対の今は感覚よりも速い

眼に見えないモノを眼に見えるモノになぞらえるのは難しいものだが、ここでは敢えて「絶対の今」と「感覚」という二つの眼に見えないものを、眼に見えるモノになぞらえてみたい。その目的は、「絶対の今」を「感覚」が捉えるのは不可能だと言うことを、視覚的なイメージに訴えながら、皆さんに分かりやすくお伝えするためである。
それを意識して私としてはまず、「絶対の今」=逃げる者、「感覚」=追う者、という図式を作りたいので、両者をなぞらえるにふさわしいのは当然のことながら、静止しているモノではなく動いているモノってことになる。
動くモノと言えば直ぐに連想するのは生物だが、ここではちょっと捻って「絶対の今」を車になぞらえ、「感覚」を恐竜になぞらえることにする。
このように申し上げるともう既に、皆さんの心の中には、「絶対の今」という名の逃げる車を、「感覚」という名の恐竜が追いかけて捉まえようとしている図が浮かんでいるかも知れません。それだと話が早いのですけども。余談だがこういう図って、昔流行った『ジュラシックパーク』という映画のワンシーンを彷彿とさせますな。
ちなみに「絶対の今」を車になぞらえることにした理由の一つを申し上げておくならば、ここからの話と、前に車を引き合いに出してお話したこと(覚えておられますよね)とは根本のところでリンクしているってことを示唆するためでもある。そのことを念頭に入れておかれると良いだろう。また、「感覚」を恐竜になぞらえることにしたのは、恐竜ぐらいしか車を追いかけて捉まえようとする生物なんて思い浮かばないってのもある。
では本題に入らせていただくが、くだんの「感覚」という名の恐竜には、したくてもできないことが少なくとも二つある。一つは、もはや説明の必要もないであろう「絶対の今」という名の車を捉まえることである。もう一つは、ひとりコブラツイスト……何それっていう声が聞えてきましたが、これはここでは必要ないことなので、取り合えず横に置いときやしょう。ここで取り上げたいのはもちろん、「感覚」という名の恐竜は「絶対の今」という名の車を絶対に捉まえられない、という部分である。
前者から眺めた後者の逃げっぷりというものは常に、捉まえたかに見えた場所よりもほんのちょっとだけ先に行っている、という際どいものばかりだ。それぐらい前者のモノを捉まえる速度は速いってことだが裏を返せば、その速さをもってしても後者を捉まえるまでには到らないってことでもある。
「感覚」という名の恐竜がなんぼ「絶対の今」という名の車を捉まえたつもりになっても、彼が実際に捉まえるのはいつだって実物ならぬ残像と決まっている。たとえ彼が限界まで速く動いた場合でも、「絶対の今」という名の車は間一髪で彼の魔手を逃れているものだ。
そう言えば車ならぬジェット機がらみのもので、これと似た話がありました。昔読んだ本によると、音速よりも速く飛ぶジェット機の中に居ると、ジェット機の発する音は聞えないのだそうである。その理由はご存知かも知れないが、ジェット機が飛んで行く速さに音が追いつけないからなのだとか。
ちょうどそれと同じように、「絶対の今」という名の車が走って行く速さには「感覚」という名の恐竜は追いつけない、という次第である。
さて時間の流れ行く様をある視点から眺めると、絶対の今が過去を後にしながら未来へ未来へと移動し続けているようにも見えるが、これまでの例え話からもお分かりいただけるように、絶対の今のその速さは感覚がモノを捉える速さを常に上回っている。そのような中で感覚にせいぜいできることは、絶対の今の残像即ち、一瞬前という絶対の今に極めて近い過去を捉えることだけだ。すねてんじゃないよ、感覚!
我々が絶対の今においてモノを見ようとする時、とどのつまりはモノを有りのままに見ようとする時、思考やイメージはもとより感覚さえも脇に置く必要に迫られるのは、そういうわけだからである
Iに続く
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