心と真我


J一体感に関する一考察

「真我とモノが一体化した中では感覚さえも脇に置かれている」と私が申し上げる時、その感覚という言葉には当然のことながら、モノとの一体感というものも含まれている。モノとの一体感というものもまた、我々がモノに対して抱く感覚の一種であることには違いないのだから。冒頭の言明には一つの例外もないのだ。
このようなわけで、我々がモノを有りのままに見ることによって真我とモノが一体化した状態に到ると、他の全ての感覚と同様、モノとの一体感さえも脇に置かれるようになっている。もちろん、その脇に置かれるものの中には一体感ばかりではなく分離感も含まれているのだけれども。これは裏を返せば、我々の中にモノに対する一体感があるうちは真我とモノは一体化していない、ということに他ならない。
いかにも逆説的な話ではあるが、「真我とモノが一体化した中では感覚さえも脇に置かれている」という理屈が飲み込めている人には、しごく当然のこととして受け止められるはずである。
さてもしもあなたが、例えばバラが大好きな人間だったとしたら、バラを見るとバラとの一体感を感じることだろう。が、その好きな気持ちが高じてバラを見ることが極まるところまで極まったらどうなるかと言うと、あなたの内なる目撃者つまり真我が顕在化してバラと一体化した状態になるので、バラとの一体感を含む全ての感覚は脇に置かれる。そしてそこであなたが見るのは、あなたがバラに対して何かを感じる前にあったバラ、簡単に申せばバラの色と形だけだ。その時のあなたの境地を一言で表すとすれば、さしずめ「バラを映す鏡」といったところだろう。そういえば、この手の境地を連想させる言葉として今思い出したのは、クリシュナムルティーの日記を本にしたものの中にあった「蝶の色が蝶だ」というくだりである。「蝶の色が蝶だ」という詩のようなこの言葉を皆さんにも味わっていただけたらと思う。余談だが私の場合、はじめてそれを読んだ時は、なんだかよく分からないけどカッコイイ言葉だな、てな強い印象を持ちました。まあだから、覚えていたわけなんですけどね。
バラを映す鏡のような境地になるまでバラを見つめ切る人が実際に居るかどうかは別にして、仮にそういう境地に到った人がいたとしたら彼はその時、バラとの一体感こそ感じてはいないもののバラと一つには成り得ていると言える。いや、というよりもむしろ、一体感が入りこむ余地もないまでに彼は見事にバラと一体化している、とこそ言うべきだろう。
あなたはご存知だろうか。一体感というものは実は、自分とモノが前述のような形で一体化した状態を、微かな時間の経過の後に心の中で振り返った時(もしくは客観視した時)起こるものだということを。
理解の一助としていただくために、自分の体験に照らしながら考えてもらいたいのだが、例えば我々が仕事に没入し真の意味で仕事と一体化している時って、仕事との一体感さえも忘れていますよね。さらに言えば、仕事との一体感をもし感じることがあるとしたら決まって、そういう自分を一瞬の間をおいて心の中で振り返った時ですよね。そこに思い至ることができたら、前述の話を飲み込むのはそう難しくはないはずである。
このようなわけで、モノとの一体感はモノからの分離によってもたらされると言えるのだが無視しちゃならないのは、モノから分離し過ぎていたら一体感は起こらないというもう一方の事実である。だから、次のように理解しておかれるのが一番よいだろう。
自分とモノが分離した状態の中で、自分とモノが一体化した状態に最も近いのが「モノとの一体感を感じている状態」である、と。
さて本当は、モノとの一体感に限らず、我々がモノに対して抱く感覚というものはおしなべて、目に映ったモノを目に映った刹那から一瞬後に心の中で振り返った時に生じるものなのである。逆に申せば、感覚が捉えることができるのは常に、真の意味で今ここに在るモノではなくして、一瞬前に在ったモノの心に残った残像だってことになる。
Kに続く
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