心と真我


K眼を通してモノを見ているのは私じゃない

色にはそれこそ色々な種類があるが、ご存知のようにその一つ一つが、我々の心に固有の感覚を生じさせる力を持っている。例えば我々は、赤い色を眼にすれば、熱い感じあるいは燃える感じがするものだし、青い色を眼にすれば、涼しい感じあるいは落ち着く感じがするものだ。
で、我々がある色を眼にしてからある感覚を抱くに到るまでの、内的な世界での経緯を分析してみると、我々がある色を眼にすることと、ある感覚を抱くこととの間にはちょうどサンドイッチの真ん中の部分みたいに、ある一つの働きが挟まっていることが分かる。ある一つの働きとは、その色をその色として認識する働きのことである。具体的に言うと例えば、我々の眼にする色が赤い色なら、その赤い色を赤い色として認識する働きのことであり、我々の眼にする色が青い色なら、その青い色を青い色として認識する働きのことである。
もし仮に我々の内的な世界において、この働きが起こらなかったら我々は、なんぼ赤い色や青い色を眼にしたとて前述のような感覚を抱くことができない、抱きようがないのだ。我々はある色を眼にした直後、もしくはある色を眼にすると同時に、その色をその色として認識できるからこそ、続けてそれに対する固有の感覚を抱くこともまたできるのだと言える。
そしてここからが一番大事なのだが、我々がその色をその色として認識できるってことは、取りも直さず我々の中に、その色をその色として認識する主が居るってことに他ならない。ではその、我々の中に居ると見られる「その色をその色として認識する」いそうろう、じゃなくて、主とは一体何者なのか?
少なくとも一つだけハッキリ言えるのは、そいつは心じゃない、ということだ。そいつの出番があるのは心の働き即ち、感覚とかイメージとか思考とかが生じる前の段階なのだから。
てことは心と自分を同一視している人から見たら、そいつはまるで赤の他人みたいな奴と言っても過言ではないかも知れない。いや、確かにこれは言い過ぎでもなんでもないのであって、自分のことを心と見なしている人からしたら、そいつは赤の他人以外の何者でもないのだ。両者の間には繋がりってものがまるでないのだから。心と心ならぬものとの間に一体どんな繋がりがあるというのだろう。
さて既に承知しておられるように、悟りとは真我の発見に他ならないが実は、その真我こそは先ほど出てきた「その色をその色として認識する」主の正体なのだ。
悟る前の人は基本的に、心と自分を同一視しているものなので、前述の話を踏まえた上で申し上げるならば、悟りとは真我という名の内なる赤の他人を発見することだとも言える。
「あれっ、この眼を通してモノを見ているのは私じゃなかったのか!」てな驚きが悟りに伴うのは、そのためである。
Lに続く
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