心と真我


M真我と瞑想中の出来事の関係

前述のように真我には、五感が捉えるモノや心に生じる思考やイメージや感覚などを、それ自体において認識する働きがあるのだが実は、もっと付け足させていただくならば真我には、瞑想中の出来事をそれ自体において認識する働きもまたあるのだ。
それがあるからこそ我々は、五感が捉えるモノや心に生じる思考やイメージや感覚などと同じように、瞑想中の出来事をも認識できるのだと言える。それがなかったら我々は、瞑想していても、そこで何が起こっているのかを認識できないことだろう。
五感が捉えるモノであれ、心に生じる思考やイメージや感覚などであれ、瞑想中の出来事であれ、我々がそれらを認識できるのはひとえに、それらの一つ一つをそれ自体において認識する主即ち真我が存在しているからに他ならない。これは例えば、我々がモノを見れるのは目玉があるからだ、というのと同じ理屈である。申し遅れたが、ここに言う瞑想とは多くの人たちが考えているような瞑想つまり、心の世界に奥深く入って行く瞑想を指している。
このようなわけで我々は、瞑想中にどれほど素晴らしい出来事に直面しようとも、そのことが真我の発見を意味する悟りに繋がっているとまでは思わない方がよい。出来事と名のつくものはどこまで行っても、真我に認識される対象に過ぎないのだから。
我々は瞑想中に、真我とおぼしきもの例えば、光とか光り輝くものを見たり、大いなる存在を感じたりなんかすると、ついそんな風に錯覚しがちだが、そんな風に錯覚しかかった時は頭を冷やしてまずは、こう考えてみて欲しい。私がこの出来事を認識できているってことは私の中に、この出来事自体を認識している者が居るってことだ、と。そして、真我とはその認識者のことであって、私が今見たり感じたりしているこいつのことではない、というところにまで思いを及ばせていただきたい。
ところで、真我は私からは見えない、ということを象徴的に表現すると、真我は私の後ろに存在している、という言い方もできる。この言い方は、何を象徴するためのものかってことを知らない人には誤解を与えやすいが要するに、私の後ろにあるものを私は絶対に見ることができないように私は絶対に真我を見ることができない、という意味である。もっと言うと、真我の側から私を見ることはできるが、私の側から真我を見ることはできない、という含みもまたそこにはある。
あくまでも象徴的な表現に過ぎないが、真我が私の後方にあるのに対して、瞑想中に出会う光輝くものとか大いなる存在とかは私の前方にある即ち、私から見える位置にある。私の後方にある真我と、私の前方にある光輝くものやら大いなる存在との違いをしっかりと心に留めておいていただきたいものである。
ついでだがこのように申し上げると、「では真我を発見するのは誰なのか?」という疑問を持たれる向きがあるに違いない。が、これについてはまた別の機会に触れることにいたしましょう(と言ってもご存知のように、『真我は垂直の次元に在り』で既にその問いに対する答えは出てるんですけどね)。
Nに続く
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