たまにはアドリブで

いつもは、ここに書き込む前にワープロで下書きしておくんですけど、今回はアドリブで行こうと思って、下書き無しで書きはじめたところです。たまにはいいんじゃないですかね、こういうことも。下書きが無いが故の乱文はご容赦願います。
数日前に更新した「悟談」の中で私はこう申し上げました。悟りへの道は心を脇に置くことが全てである、と。悟りへの道は心を脇に置くことが全てだってことを知っていると、便利なことが少なくとも一つはあります。それは、今の自分のあり方や行為は悟りに近いのか、それとも遠いのか、という判断を自分でできる、ということです。それというのも、今の自分のあり方や行為が心を脇に置くことに沿っていれば「自分は今悟りに近い」と分かるし、そうじゃなければ「自分は今悟りから遠い」と分かるからです。今の自分のあり方や行為は心を脇に置くことに沿っているか否か、その一点を見れば、今の自分のあり方や行為は悟りに近いのか遠いのか、ということが分かるってことです。

この判断方法に照らすと、悟りを求めている状態よりは悟りを求めてない状態の方が悟りに近いってことになるし、、悟ってない自分をどうにかしようとしている状態よりは、悟りをあきらめてる状態の方が悟りに近いってことになるし、悟りを掴んでいる状態よりは悟りを掴んでない状態の方が悟りに近いってことになるし、悟りを感じている状態よりは悟りに無知な状態の方が悟りに近いってことになります。
ピンと来ない向きは、悟りを求めたり、探したり、分かったり、掴んだり、感じたりすることなどは全て心の働きだという事実に思いを馳せていただきたい。そういうことは全て心の働きに他ならないので、そういうことをしている間は心を脇に置いた状態にはなれない即ち、悟れないというわけです。
さて、悟りへの道に足を踏み入れた人の中には、「究極の意味において、本当のことって一体何なのだろう?」というような根源的な問いに対する答えを悟りに求めておられる方が少なくないのではないかと思います。が、そのような方に対してさえも、私は敢えて、こう申し上げなければなりません。あなたの、その答えを求める気持ちもまた心の働きであるが故に悟りを遠ざける原因になっているのですよ、と。
では、どうすれば良いのか? ですって……。もちろん、答えをあきらめるしかないじゃありませんか。それも不承不承ではなく、きれいさっぱりとね。きれいさっばりあきらめるのでなければ、心は脇に置かれません。
きれいさっぱりあきらめて心を脇に置けた時、あなたは気づかれるんじゃないでしょうか。前述のような根源の問いに対する答え、もしくは立脚すべき確かなものを心に持たず、空白のままでいることの中にも喜びはあるものなんだなあってことに。空白のままでいること、答えの無い白紙の状態でいることの中にも喜びはあるのですよ。
いずれにしても、悟りの訪れがあるのは、そんな時です。
(※話の流れによっては、同じことをもう少し詳しく、「悟談」でも述べるかも知れません。)
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