『たまにはアドリブで』の続き


その一

当サイトを読んでおられる方のほとんどは多かれ少なかれ、悟りを求めておられる方なんだろうな、と思っています。もちろん中には、知的好奇心だけから読んでおられる方も混じってはいるのでしょうけれども。前回お届けした『たまにはアドリブで』の中で私は、そんな方々に向けて、次のような言明をいたしました。
「悟りを求めている状態よりは、悟りを求めていない状態の方が悟りに近い」
これを読んで、それならばそうしてみよう、という気になられた人もおられるでしょうが、その一方で、こんな疑問を持たれた人もまたおられるのではないでしょうか。
「世間の人々を見てみると、そのほとんどはハナっから悟りのサの字にも関心がなく、ましてや悟りを求めてなんかいやしない。もしも中島タローの言うことが本当ならば、私よりも彼らの方が悟りに近いってことになるはずだが、とてもそんな風には思えない…」
こんな疑問をお持ちの向きにまず申し上げたいのは、前出の言明は基本的に、今現在悟りを求めておられていてなおかつ、当サイトを読んでおられる方(あなた)に向けて発せられたものである、ということです。そして、こう指摘させていただきます。
今現在悟りを求めておられる方が、前出の言明に従って、悟りを求めていない状態に心を切り替えた場合、心はそれ以前よりも脇に置かれることになるはずです。何故なら、求めているものが多ければ多いほど心は前面に強く大きく出てくるものだからです。
従って、前述の言明を受け入れて心を、悟りを求めている状態からそうじゃない状態に切り替えようとしておられる方は、自分の内側で生じる変化だけを見ておればよいのであって、ハナから悟りに関心のない他人のことまで考える必要はないわけです。彼らのことは視野から外して、ご自分のことだけに眼を向けていただきますよう、お願いいたします。
前回の文はタイトル通りアドリブで書いて、時間を置いて推敲しなかったものですから、そういうことを申し添えるのを忘れてました。

その二

申し添えついでに、もう一つ申し添えておきましょうかね。前回の文の中で、私はこんなような話もいたしました。
「立脚すべき確かなものを心に持たず、空白のままでいることの中にも喜びはあるものだ…」
どうして゜そう言えるのかを申し上げる前にまず押さえておきたいのは、心というものは立脚しているものが不確かになればなるほど希薄になってゆく、ということです。心は立脚しているものあるいは、アイデンティテーが不確かになればなるほど希薄になるようにできているものですが、心が希薄になるのに反比例して色濃く現れ出てくるものがあるのをご存知でしょうか。いや、当サイトに親しんでおられる方ならもうピンと来ておられますよね。言うまでもなく、それは真我です。
立脚しているものが不確かになればなるほど心は希薄になって行きますが、心が希薄になるということはその分だけ、真我が顕在化するということなのでもあります。心が立脚しているものが不確かになればなるほど、どこからともなく湧いてくる喜びの元はそれです。
もしも我々が肉体の他には心しか持たない存在であったならば、心の希薄化はマイナスの意味しか持ち得ません。従ってそこには、如何なる喜びもあり得ないことになります。しかし、心が希薄になればなるほど表に出てくる真我というものが我々にはあるので、そうはならないわけです。
悟り即ち真我が真我自身に気づくという不思議な転回は、心の希薄化が極まって真我が顕在化し切った時にしか起こりませんが、たとえそこまで行かなくとも、そこに近づいてゆく過程つまり心の希薄化が進んでゆく過程においても、前述のような理由により、それなりの喜びはあるものです。最終的な到達点である悟りに伴う絶対的な歓喜ほどではありませんけどね。
さて以上の話からもお分かりのように、悟りに伴う喜びとは、心が全面的に脇に置かれて真我が全面的に顕在化することから来る喜びなのであって、少なからぬ人々が誤解しているように、心が真我という大いなるものを発見し、その大いなる真我に立脚して揺るぎなくなることから来る喜びなのでは決してない。そもそも心と真我は出会うはずのないもの、どうしてそんなことが起こり得るでしょうか。が、私の見たところ、そんなことが起こり得るかのように誤解してらっしゃる向きは少なくないようです。
真我が顕在化すればするほど、心は脇に追いやられて小さくなります。逆に心が何か大きなものに自己同一化して揺るぎなくなればなるほど、真我の露出度は小さくなります。
悟りとは心が真我に立脚して揺るぎなくなることなのではなく、真我が表に出てきて、揺らいだり揺らがなかったりする心が後ろに引っ込むことだったのです。
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