心と真我


P偶発的に訪れる主客一体の境地

モノを有りのままに見る、ということの本当の意味を知りたかったら、動いているモノを相手にそれを試みるのがベターだってことを前に申し上げたが、我々の日常生活においては時おり予期せぬ形で、その動いているモノが我々の眼に飛び込んでくることがある。そういう時我々は、自分にそのつもりはなくても、ごく自然にモノを有りのままに見ている状態になっているものだ、というか、ならされているものだ。それは、そういう時の我々は、モノを有りのままに見るために必要な二つの条件すなわち、眼にモノを映すってことと、心を脇に置くってことの両方を求めずしてクリアできているからに他ならない。
そういう時の我々の中で生じるもう一つの変化に言及しておくならば、それまで心の背後に隠されていたモノを見る意識つまり真我が顕在化して、眼に飛び込んできたモノと一体化する。我々の内なる真我のお仕事は、モノと一体化してモノを見ることだ。ご注意願いたいのは、ここに言う「モノと一体化する」とは、時間的にも空間的にもモノと全く同じ位置に自らを置く、という意味だってことである。そういう意味での一体化をモノに対してするからこそ、真我はモノを見ることができるのだとも言える。考えてみればお分かりいただけるはずだが、真我であろうと何であろうと、モノと時間的にも空間的にも全く同じ位置に自分が居なかったとしたら、真にモノを見ることなどできませんよね。モノとの接点がそこには有りませんもの。
いずれにしても例えば、モノに対して一体感を持つとか、モノに宿る何かを感じるといったような心の世界に結びつく意味はそこにはない。国語的にはそんな意味に取れなくもないが、ここに限ってはペケである。
さて、動いているモノが唐突に眼に飛び込んできた時の、真我のそういう働きをもう少し詳しく、例え話を使って説明してみたい。
例えば、仮にあなたが街中を歩いていて、街中では珍しい蝶々を唐突に眼にしたとしましょうか。そうした場合、あなたの心は求めずして脇に置かれた形になるので、あなたは否応なく心というフィルターを通る前の蝶々すなわち有りのままの蝶々を見ることになるわけだが、そこにおいて、有りのままの蝶々を見る主は顕在化して蝶々と一体化したあなたの真我なのだ。
たとえ真我の何たるかを知らなくても、また真我という言葉さえ知らなくても、飛んでいる蝶々を街中で唐突に眼にした時は誰でも、自分の中の何かが顕在化して蝶々と一体化し、蝶々と共にヒラヒラ舞うという体験をしてしまうものだ。その時間は一般的に長くは続かないということもあって、忘れてしまう人の方が多いだろうけれども。心当たりのない方でも本当は一度や二度は、そんな体験をしているはずなのである。
もし仮にそこで、あなたが唐突に眼にするモノが飛んでいる蝶々ではなく、落ちてゆく枯葉だったら、顕在化したあなたの中の何かはその枯葉と一体化し、枯葉と共にスーッと落ちてゆくだろう。また、もし仮にそこで、あなたが唐突に眼にするモノが放たれた矢だったら、顕在化したあなたの中の何かはその矢と一体化し、矢と共に風を切って進んでゆくだろう。
飛んでいる蝶々であれ、落ちてゆく枯葉であれ、放たれた矢であれ、何か動いているモノを予期せぬ形で眼にした時の我々は、自分の中の何かが顕在化してそれと一体化し、それと共に動くという体験をするものだ。ピンと来てらっしゃらない方は今後のために、この話を覚えておかれるとよいかも。そうすればこれから先、話の中にあるのと同種の体験に出くわした時、「ああ、これのことだったのか!」とうなずくことができるはずだから。
既にピンと来てらっしゃる方と、これからピンと来る予定の方の両方に等しく申し上げておきたいのは、前述のような体験において、モノと一体化しモノと共に動く何かこそが他ならぬあなたの真我なんだってことである。既にピンと来ておられた方は、真我との距離がグーッと縮まったのではないだろうか。
Qに続く
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