心と真我


Q真我で見る、心で見る

もし仮に「見る」という言葉が、モノ自体を見る場合にのみ使われる言葉であったならば、「心でモノを見る」なんていう言い回しは成り立たない。そもそも心には、モノ自体を見る働きは備わっていないのだから。もっと言うと、モノ自体を見る上での唯一の障害物は心だという事実さえある。ちなみにここに言う「モノ自体」とは例えば、そのモノが視覚によって捉えられたモノならば、それの色と形自体ってことである。また例えば、そのモノが嗅覚によって捉えられたモノならば臭い自体ってことであり、聴覚によって捉えられたモノならば音自体ってことである。
「心でモノを見る」という言い回しが人々の間で通用するのは、「見る」という言葉が必ずしも、前述のような意味でのモノ自体を見る場合にのみ使われる言葉ではないからに他ならない。「心でモノを見る」という言い回しを我々がする時、そこに込められている意味は基本的に、「モノにまつわる何かを心で受け取る」というものである。そして、その何かとは多くの場合感覚(感じ)を指している。要するに、「心でモノを見る」という言い回しが我々の間で使われる場合、「心でモノを感じる」という意味で使われることが多い。
さて私の考えでは、「心でモノを見る」の対立概念は「真我でモノを見る」である。私が「真我でモノを見る」という言葉を使う時は常に、「心でモノを見る」という言葉がその対極にあるものとして意識されている。
再三申し上げているように、真我でモノを見ている状態になるためには心を脇に置き、モノ自体を見るように自分を持ってゆく必要がある。心を脇に置いてモノ自体を見ている時、結果的に我々にもたらされる状態が真我でモノを見ている状態だとも言える。それというのも我々の中において、モノ自体を見る役目を負っているのは真我だからである。
従って例えばの話、今我々の眼の前にが赤いハンカチがあるとしたら、我々はそのハンカチの四角い形と赤い色だけを見るように自分を持ってゆくことによって、真我でモノを見ている状態になれるわけである。真我で見ているモノが赤いハンカチである時、そこにあるのは四角い形と赤い色だけだ。そこにはただ四角い形と赤い色だけがあって、それ以外のものは何も無い。、赤いハンカチにまつわる感覚も無く、イメージも無く、連想もなくまた、「ここに赤いハンカチがある」といった想念も無い。そういうものが発生する前にある原初の意識こそが真我なのである。
ところで以上のようなことを申し上げると中には、こんな感想を抱かれる向きもあるかも知れませんね。
「もしそうだとしたら、真我でモノを見ながら生きている人って、物質的な世界のことしか見ていないわけだな…」
そうおっしゃりたい人が居らしても無理はないが実際は、我々の中にある真我は五感が捉えた物質的な世界のみならず、心の世界をも見る対象とすることができるので、そうはならないのである。ここでは、そういうことにも触れておく必要がありそうだ。
真我が物質的な世界ではなく、心の世界を見る対象としている場合には当然のことながら、「心を脇に置いて心の世界を見る」という形を取ることになる。が、この「心を脇に置いて心の世界を見る」という言い回しは意味そのものは単純明快なのだけれども、文章表現上のややこしさがあるので、こんがらがっちゃう人がおられるかも知れません。こんがらがっておられる方は、その言い回しを「裸眼で心の世界を見る」というスッキリした言い回しに置き換えて、意味を考えてみられたらよいだろう。意味はどちらも同じである。心を脇に置いて何かを見るってことはとどのつまりは、裸眼で何かを見るってことに他ならないわけだから。
そういえば、「心を脇に置いて心の世界を見る」という言い回しと同種のややこしさを持った言い回しを今思いつきました。「サングラスを外してサングラスを見る(選ぶ)」という奴。くだらなくてスミマセン。でも、「心を脇に置いて心の世界を見る」という妙な言い回しの意味を考える上で、参考にはなるんじゃありませんか。
さて前述のように、真我で心の世界を見るということは「心を脇に置いて心の世界を見る」もしくは「裸眼で心の世界を見る」ということとイコールなので、例えば心の世界に属するものの一つである感情を真我で見ている時は、ただその感情だけがそこにはある、という状態になる。例えば赤いハンカチを真我で見ている時は、ただ赤いハンカチだけがそこにはある、という状態になるのと同じように。その感情が例えば「コンチクショー」という感情であった場合には、そこにはただ「コンチクショー」だけがあって、「こんなことを思っちゃいかん!」とか「こんなことを思う自分はなんて度量の無い奴なんだ!」といった価値判断もなければ、そんなことを思う自分への嫌悪感や改善欲なんかも無いわけである。
ついでだが、そういう状態を保っていると我々はいつの間にか、「コンチクショー」という感情から解放されているものだ。そういう状態を保つってことは、一切の感情を超越した真我の側に回るってことなのだから。
Rに続く
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