心と真我


S心の中だけにある主客の分離

既述のように我々が裸眼でモノを見ている時、我々の前に在るのはただ心というフィルターを通る以前の有るがままの対象だけである。そして、それ以外のモノは全て消え失せているわけだが、その消え失せるモノの中には実は、対象から分離した私も含まれている。対象から分離した私とは、対象を、対象から離れた位置すなわちコチラから見ている私のことだ。我々が対象を裸眼で見はじめると、それまでは在るかの如き観を呈していた「対象をコチラから見ている私」は消え失せるのである。
それというのも、我々が裸眼でモノを見ている時の、モノを見ている主体は顕在化した内なる真我であるが、そいつはどの時点においてもモノと全く同じ場所に在るからに他ならにない。そこにおいては、真我という名の主体とモノという名の客体との間に時間的空間的な分離がない。主体と客体は完璧に一体化しており、髪の毛一本挟む隙間もない。例えばその時、我々の眼に映っているモノが柳だったら「柳が我か、我が柳か」の状態になっているし、我々の眼に映っているモノが花だったら「花が我か、我が花か」の状態になっているものだ。
余談だがこの、真我でモノを見ることの中に含まれている主体と客体が一体化した状態のメカニズムというか仕組みというものは、頭でいくら考えても分かるものではない。いや、真我の発見を意味する悟りに到ってもなお、分からない永遠の謎である。我々にできるのはただ、真我でモノを見るとはそういうことなんだ、と何も考えずに受け入れることだけである。考えることを一つ減らせば、悟りに一歩近づくものなんだ、ということをどうか覚えておいていただきたい。
ともあれ前述のような理由により、我々が真我でモノを見ている時は、言い換えるとモノ自体を見ている時は、モノを離れた位置から見ている私の存在はどこをどう探しても見当たらなくなる。そこにおいては、「アチラにあるモノをコチラに居る私が見ている」という、それまではあったはずの図式は無くなっている。
さて、そこに到ってはじめて我々は、ある一つ重要な事柄に気が付くことができる。
「アチラにあるモノをコチラに居る私が見ている」という図式は客観的な事実としてあるのではなく本当は、我々の主観すなわち心の中にしか存在しない、というのがそれである。夢とか錯覚といったものは基本的に、我々がそこから離れた時はじめて正体が分かるようになっているものだが、ここでもそれが当てはまるという次第だ。
解説させていただくならば、「アチラにあるモノをコチラに居る私が見ている」という図式の中の、アチラにあるモノとは心が感じたり描いたりしたモノのことであって、実体としてのモノのことではなくまた、コチラに居る私とは心が感じたり描いたりした私のことであって、実体としての私のことではない。
どうやら我々の心の中では、アチラにあるモノとそれをコチラから見ている私とはセットになっているようである。
(21)に続く
TOP INDEX BACK NEXT