心と真我


(22)真我を見つけるのは誰?

「呼吸を止めてモノの色と形だけを見る」という、前回ご紹介させていただいた方法をお試しになってみられたでしょうか。試してみて、いっこうに成果が上がらなかった方々すなわち「真我を顕在化させて、それを見る」という目的を果たせなかった方々に、ちょっと一言。
あなたが成果を上げられなかった理由の一つには、「真我を見たい」という動機の存在もあったのかも知れません。
そういう動機を持っていると、いくら呼吸を止めてモノの色と形だけを見るべく努めたとしても、真我の顕在化とそれに続く真我発見のための必要条件である無心の徹底はかなわないのである。とはいえ、くだんの方法を一度、真我を顕在化させるための有効手段として紹介されたら誰だって、そういう 動機を意識的にせよ無意識的にせよ、抱えてしまいますよね。それが人情っていうか、人の常というもの。その意味では、くだんの方法で成果を上げることのできた人は皆無であった可能性もあながち否定できない。
「自分であの方法を紹介しておきながら、そんな言い方は無責任じゃないか、だましやがったな!」てな突っ込みが来た日には、私にできる言い訳は次の一言のみ。
「でも、それはそれで一つ勉強になったのではありませんか」
勉強になったこととはモチのロン、真我を見つけたいという動機を持っていると、それ自体が真我を見つけることの妨げになるってことである。
ところで、これまで私の話を読んでこられた方は、「真我を見つける」ということに関して、次のような問いを持たれるかも知れません。
「これまでの話によると、真我が顕在化している時とは心が脇に置かれている時でもあるのだから、真我を見つけるのは心ではないはずである。真我を見つけるのは心ではないとすると、では一体、真我を見つけるのは誰なのか?」
この問題は非常に重要である。真我の発見を意味する悟りについて語る上で、必ず一度は触れておかねばならない話題でもある。
答えを申し上げよう。真我を見つけるのは実は、真我自身なのだ。
私はこれまで真我というものを、我々の内なる目撃者と位置づけ、モノと一体化してモノを見る働きのある意識の眼であると皆様にご紹介してきた。が、その意識の眼である真我にはなんと、自分自身をも見ることができるという宴会芸、じゃなくて、機能があったのである。自分自身を見る、といっても、自分から離れることができるわけではないので、客体もしくは対象として離れた位置から見るという意味ではないのだけれども。その一点において、ここに言う「見る」と俗に言う「見る」は同じではありませんね。いずれにしても、肉体の眼にそんな芸当ができないのはご承知の通りだが、意識の眼である真我にはそんな、我々が逆立ちしても想像できないようなことができてしまう。それが、悟りというものだ。
真我の発見を意味する悟りの何たるかは実際に悟ってみるまでは分からない、と言われるのはそのためである。前述のようなことは誰も予想していないはずだしまた仮に、知識として誰かに教えられて予想するところまではできたとしても、それが具体的にどんな状態であるのかまでは想像もつかないに決まっている。悟る前の人にとっては、真我の何たるかも未知なら、真我の発見のされ方もまた未知なのである。
二重の意味での未知が、そこにはある。が、強いて申せば、多くの人々にとって悟りを困難なものたらしめている犯人は、前者というよりもむしろ後者である。つまり真我の見つけられ方というものが、人々の予想とは大幅に異なるものであるが故に、悟りに到る人の数が少ないのだと言える。
余談だがそういうわけなので、悟ったからと言って我々は「ついに俺はやった!」とか「私は悟った!」とは言えないのである。なにせそこには、自分の関与がないのだから。もし仮に悟りというものを、そういうものであるかのように捉えている人がいたとしたら、その人は何も分かっていないと申し上げるしかない。彼は悟りという自分の理解を超えたものを、自分の理解の及ぶ範囲のものに降格させたのである。
いずれにしても以上のことを知っておくと、真我の発見を意味する悟りへの途上にある人にとっては大きな後押しとなるだろう。知っておけば、真我発見の妨げとなる「(自分が)真我を発見しよう」という動機が自ずから封じられるはずだから。
(22)に続く
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