「まえがき」と「あとがき」

※現在「悟談」で発表中の文章は約十年ぐらい前から、本として世に出したいという希望を抱きながら、書きためておいた原稿がもとになっています。そのわりには、更新のペースが遅かったりするじゃないか、と思われる向きもあるかも知れませんが、加筆修整に長く時間を取られる場合とか仕事で忙しい時などは、どうしてもそうなってしまいます。更新のペースが早かったら、その逆とお考えください。不規則ですみません。
さて、話をくだんの原稿のことに戻しますが、本にしたいと思っていたぐらいですから当然、「まえがき」「あとがき」も書いていました。その「まえがき」と「あとがき」の一部をここに載せておきます。このサイトで私がやろうとしていることを示唆しているところもありますので。

まえがき

悟りとは本当の自分との出合いである。
その本当の自分は、肉体も心も二つながら超えたところに存在している。
ご存じのように心には、大きく分けて表層意識と称される浅い部分と潜在意識と称される深い部分があるが、ここに言う心とはその両方のことである。
意外に思われる向きもあるかも知れない。潜在意識を本当の自分とする見方は人口に膾炙(かいしゃ)しているようなところがあるから。
が、悟りによって出合う本当の自分はその潜在意識も超えたものであるというのが、私の見解である。だからといって、潜在意識を無用なものだとしているわけではないので、誤解なさいませんように。
さて仏教哲学の中には唯識論という心を研究する分野があるが、それに絡めながら、もう少し具体的に言葉を足しておきたい。
唯識論では、心の最も浅い層つまり表層意識は第六識と称される。それは表層意識が五感の次に位置づけられることに由来しているようだ。
表層意識よりも深いところにある潜在意識がそれに続くわけだが、その潜在意識もまた浅い層と深い層に二分されており、前者は第七識(マナ識)と称され、後者は第八識(アラヤ識)と称されている。
一般に潜在意識の中でも特に第八識が本当の自分とみなされやすいのは、それが心の最も深い層として位置づけられているためであろう。
だが実際は、本当の自分とは肉体も心も二つながら超えたものなので、第六識、第七識、第八識のいずれとも結びつかないのである。
私は唯識論の専門家ではないが、本当の自分を表すものとして第九識(アマラ識)を立てる考え方が後から登場したのは、そのためだろうと思っている。
一般に第八識よりも取りざたされることの少ない第九識ではあるが(現時点での話である)、この第九識こそが、本当の自分なのだ。繰り返すが、この本当の自分は心ではない。むろん、肉体でもない。そういうことを、この本の中でつまびらかにしていきたい。……

あとがき

……ところで少しキザな言い方になってしまうが、この本を書いている時の私の気持ちを何かに例えるならばさしずめ、悟りという名のモデルを言葉という絵の具を使って色々な角度から描写している絵描きといった感じであった。
絵のモデルというものは誰であれ、あるいは何であれ、例えば前から描写したのと、後ろから描写したのと、横や斜めから描写したのとではそれぞれに違う趣を持っているものだ。
趣が違うからこそ、色々な角度から描写したくなるのだとも言える。この本では悟りという名のモデルを○○の角度から描写したのであるが、そのようなわけで、個々の描写における趣の違いは見る角度の違いによってもたらされる必然的なものである。
場合によっては、ある描写とある描写がまるで相反し合っているかのように映ることさえあるかも知れないが当然ながら、その点に変わりはない。
だから、こんな風に言うこともできる。○○の角度から眺めた悟り像を全部融合させたら真の悟り像に近くなる、と。近くなる、という言い方をするのは、描写しても描写しても、これで描写しつくしたと言える時は、来ないだろうからだ。

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