心と真我


(23)反省の弁と今後の予告

我々は二種類の眼を使ってモノを見ている、というのが、モノを見るということに関する私の見解である。ここに言う「二種類の眼」の内訳は、肉眼と真我である。
私が真我を、眼のお仲間として扱う理由については、『心と真我』をここまで読んでこられた皆さんは既にご存知のことであろう。私は真我というものを、肉眼に対するもう一つの眼として、より詳細に申せば「肉眼に映ったモノと一体化して、それを有りのままに見る意識の眼」として、皆さんに紹介してきたからである。これまで『心と真我』で述べてきたことは全て、それに対する肉付けみたいなものだったとも言える。
さて実は、最近あらためてそれらを読み返してみたのだが、読み返す中で「うっかりしていたな、ワシ」と思ったことがあったので、今回はそれについて書いておきたい。
それは何かと言うと、一言で申せば、前述のような真我の存在を、誰にとっても自明のことであるかのように皆さんに語りすぎた、ということ。
いわゆる上から目線の物言いみたいに受け取られると恐縮するしかないが、よくよく考えてみると、前述のような真我の存在は、私にとっては自明のことでも、皆さんにとっては自明のことではないはずである。ねっ、そうですよね、皆さん。「その問題に関しては、俺の方が分かっているよ」てなことを思ってらっしゃる向きには笑ってお許しいただくとして……。
どちらにしても、自分にとって自明のことは誰にとっても自明のことに決まっている、といった誤った思い込みをこれまでの私が、無意識のうちにしていたことだけは間違いない。そういう誤った思い込みの中で、私はこれまで、真我の何たるかについて、はたまた悟りの何たるかについて、皆さんに語り続けてきたのである。。
といっても前述のような真我の存在を、皆さん方全員が体験として知っておられるはずだ、とまで思い込んでいたわけではもちろんない。そういうわけではないのだが、たとえ前述のような真我の存在をまだご存じない方でも、そういうものが在るってことをほんのチョット示唆してやるだけで、「ああ、これのことだな」と直ぐに分かってくださるものだとばかりは思っていた。もっと言うと、分かってくれるのが当然で、分かってくれない奴はどうにかしている、とさえ思っていた面もある。私はそういう意識で文を書き、当サイトへの投稿を続けてきたのである。
今それを客観的に振り返って見みると、乱暴な思い込みをしていたなと思うことしきりである。前述のような真我の存在は、真我の発見を意味する悟りに到らない限り分かるはずのないもの、言葉でいくら説明されても分かりようのないものなのだから。
さて、以上のような反省を踏まえて、最近あることを決めたので、お知らせしておきたい。
その前に一つ。以前『真我は垂直の次元に在り〈中篇〉』の中で、皆様にご披露したあの方法を覚えておられるだろうか。あの方法とは、投稿文のタイトルとしても使われた「見ることと成り切ることのバランスを取るという方法」のことである。
あれは実は、私が昔「即効で悟りの世界を垣間見るための方法」として開発しておいたものの略述版だったのである。略述版であると同時に、アレンジバージョンだったとも言える。つまり、それの原型を損なわない範囲で変則化し、簡単に説明したものだったという次第。
で、先ほどの話に戻るが、私が決めたことと言うのは、その「即効で悟りの世界を垣間見るための方法」として私が昔開発しておいたものの、略述版ならぬ詳述版を、なおかつ変則化されたものではなく正式な形のものを、当サイトにて発表したい、ということである。その時期は、この『心と真我』が完結し、なおかつ悟談のコーナーで未完のまま放置されている『心を超えて』も完結した後になろうかと思う。
ちょっと前までは、私にそんなつもりはなかった。いや、もし仮に、前述のような反省に到ってなかったら、今でもそんなつもりはなかっただろう。あの方法を、そんなに簡単には公表したくないなってのがあったし、また、そんなことをして、ある種の人たち(ぼかした言い方でスミマセン)にパクられちゃかなわんなってのもあったから。
要するにそれぐらい、自分だけの秘密にしておきたいぐらい、実効性の高い方法なのだ、あの方法は。開発者である私自身がこう言うのも、何ではありますがね。
実践された方はきっと、「即効で悟りの世界を垣間見るための方法」という名称に偽りの無いことを実感されるのではないでしょうか。それからまた、当サイトにて私が展開してきた悟りに関する説を飲み込みやすくもなるんじゃないでしょうか。ある条件をクリアしてればの話ではあるが。ある条件とは、キチンとやるってこと。キチンとやりもしない人に誤解されたり、文句を言われたりはしたくない。
(24)に続く
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