心と真我


(24)色や形と同じ場所にあるもの

真我と(この世界にある)モノの色や形の関係、それは例えば鏡と鏡像の関係、あるいはスクリーンと映像の関係にも似ている。
鏡と鏡像が全く同じ場所にあるように、あるいはスクリーンと映像が全く同じ場所にあるように、真我とモノの色や形もまた全く同じ場所にある。真我とは、モノの色や形が置かれている場所的な存在である。真我とは、モノの色や形が置かれている鏡のような、スクリーンのような存在だとも言える。
その在りようが露呈するのは、我々がモノ自体を見ている時、すなわちモノの色と形だけを見ている時に限られる。モノの色と形だけを見るためには、心を脇に置く必要がある。心とはモノの色や形を直に見ることの妨げとなるヴェールみたいなものだから。
心を脇に脇に置きモノの色と形だけを見ている時、その色や形と全く同じ場所にある真我の存在が露呈する。そして既述のように、その露呈した真我を見ることができるのは実に、真我だけなのである。そのような中で、真我が真我自身を見ること、それが悟りに他ならない。
そこで真我が見ているのは、モノの色や形と全く同じ場所に居る自分・モノの色や形と一体化した自分である。いや、正確にはそれは、全てのモノの色や形と全く同じ場所に居る自分・全てのモノの色や形と一体化した自分とこそ言うべきだ。
そこにおいて、真我の存在が露呈する契機となったのは、ある特定のモノの色や形を見るという行為であったとしても、そのことを通して露呈した真我そのものは、あくまでも全てのモノの色や形と全く同じ場所にある存在なのだから。
真我は全てのモノの色や形と全く同じ場所にある。だからこそ我々は、その中のどれか一つを任意に選んで、それの色と形を見ることにより、例外なく真我を露呈させ得るのだと言える。
さてここからは余談で、前回の話の付け足しになるが、私はこれまで、モノの色や形と全く同じ場所にある真我という名の意識の存在は、ちょっと示唆してあげれば誰でも「ああ、これのことね」と、直ぐに気づいてくれるものだとばかり、無意識のうちに思い込んでいた。頭を冷やしてよく考えてみれば、そうでもないことは明白なのに、いかんせんその思い込みは無意識レベルのものだったので、私の自覚にのぼりにくかったという次第だ。
前回取り上げた「ちょっと示唆してやりさえすれば、真我の存在には誰でも気がつくはずだ」といった私の思い込みの、より具体的な内容はそれである。
(25)に続く
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