心と真我


(25)色や形を見る働きはどこで……

モノの色や形を見る、という働きは、モノの色や形と全く同じ位置で起こる。
例えば、そのモノが夕日であったとしよう。そういう場合、夕日の「丸い赤」を見る、という働きはその「丸い赤」と全く同じ位置で起こる、空間的にも時間的にも。
具体的に申し上げよう。その働きが起こるのは例えば、夕日の「丸い赤」からコンマ1ミリ右にずれた位置においてではないし、コンマ1ミリ左にずれた位置においてでもないしまた、コンマ1ミリ上や下にずれた位置においてでもない。さらに言うと、その働きが起こるのは例えば、コンマ1秒前でもなければ、コンマ1秒後でもない。
このように、夕日の「丸い赤」を見る、という働きは空間的な意味においても時間的な意味においても、夕日の「丸い赤」と全く同じ位置で起こる。そうじゃなければおかしい。それ以外にはあり得ない。
モノの色や形を見る働きがどうして、モノの色や形が置かれている場所から左右もしくは上下にずれた場所において起こり得るだろうか。また、それがどうして、過去や未来において起こり得るだろうか。
さて我々の内なる目撃者すなわち真我とは、その、モノの色や形を見る働きのことと、ここではお考えいただきたい。真我とは、モノの色や形を見る働きのことでもある。私はこれまで、真我というものをモノの色や形を見る主体として皆さんにご説明してきたが、角度を変えて眺めるとそれは、モノの色や形を見る働きそのもののことでもあるのだ。真我は見る角度によって、モノの色や形を見る主体だとも言えるし、モノの色や形を見る働きだとも言える。
主体と働き(行為)は別物であるとする一般通念に照らすとそれは、奇異に映ることではあるだろうが、真我においては両者の区別がない、というのが真相である。
真我は全てのモノの色や形と空間的にも時間的にも全く同じ位置にあって、それらを見る働きをなしているが、そのような理由により、真我でモノの色や形を見ている時というものは、見る主体と見られる客体と見ること(見る働き)が一つになっている。具体的に申せば、例えばそこで見られているモノが夕日であったとすると、夕日の「赤い丸」とそれを見ている真我と真我の見る働きとが、空間的にも時間的にも全く同じ中にある、ということになる。
その状態を、既存の概念のどれかに当てはめて理解しようとしてはならない。既存の概念のどれかに当てはめて掌握したり、分かったつもりになってはならない。そんなことをするよりは、概念化せず訳の分からないままにしておく方がはるかに良い。「訳が分からないけど、真我でモノを見ている状態ってそういうものなんだな」と。概念化すると、その状態に入りにくくなるからだ。
とはいえ、その状態を概念化して頭の中に収めておかないことにはどうしても落ち着かない、という学者タイプも中にはおられることだろう。そのような方には次善の策として、既知の如何なる概念とも結びつかない全く新しい概念として、頭の中に収めておかれることをお勧めする。
いずれにしても、私がここで申し上げておきたいのは次のことだけである。
真我とは、全てのモノの色や形と空間的にも時間的にも全く同じ位置にあって、それらを見ている者のことだ。
(26)に続く
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