心と真我


(26)世界は真我の認識の中にある

前回の文を読まれた方の中には、哲学者の西田幾多郎がかつて著作などを通して提唱していた「主客合一」(あるいは「主客未分」)なる言葉を連想された向きもあるのではないだろうか。彼の話を少ししよう。
彼の著作に関しては私の場合、部分的に拾い読みしたことがあるというぐらいの関わり方しかしていないのだが、彼が書き残した言葉の中で、印象深く覚えているものが一つある。といっても、覚えているのは言葉そのものではなく内容の方なのだけれども。
「究極の存在(あるいは真理)というものは、いかにも現実からかけ離れた遠いところに在るかのように思われがちだが、本当はそれは、我々が今生きているこの現実の中にこそ見出され得るものではないのだろうか……そんな考えがある時私の脳裏にひらめき、しばらくの間私はその考えに酔っていた」
大体、こんな感じだったかなと思う。
彼が提唱した「主客合一」なる言葉の意味するところを掘り下げてみると、究極の存在(あるいは真理)というものは正に彼の言うように、この現実の中にこそ見出され得るものだってことが浮き彫りになる。。
「主客合一」とは簡単に申せば、この現実の中で、我々が対象を有りのままに見ている時に起こる「見るもの(主体)」と「見られるもの(客体)」の一体化のことだが、ここに言う「見られるもの」と一体化する「見るもの」とは、この現実の中に置かれている個体としての私のことではなく、それを超えた究極の存在、私の言う真我のことなのだから。
我々がモノを有りのままに見ている時、我々の内なる真我はモノの有りのままの姿すなわちモノの色や形と一体化した状態で顕在化する。そこにおいては、モノの色や形のある場所がそのまま真我のある場所に他ならない。従って我々は、真我を見出すために、瞑想して心の奥深くに入って行くとか、神秘的な行をして不可視の世界をたずねるといった、この世離れしたことをする必要は全然ないわけである。この現実の中に居たまま、ただモノを有りのままに見ることだけをすればよいのだ。
さて、ここであらためて考えてみたいのは、我々がモノを有りのままに見ている時、真我はどうして我々の前に、前述のような形を取って顕在化するのかってことである。その理由を簡単に申せば、真我とは肉体の眼に映るモノを見るもう一つの眼すなわち意識の眼のことであり、その意識の眼は肉体の眼とは異なり、モノと一体化していなかったらモノを見ることができないものだからだ。
肉体の眼ならばモノと一体化していなくても、つまりモノと離れていても、光がモノの色や形の情報を届けてくれるので、モノの色や形を捉えることが可能だ。肉体の眼とモノとの間には、両者の間に接点を作ってくれる光という名の仲介者が居る。それに対して意識の眼は、自分とモノとの間に接点を作ってくれる仲介者を持たない。仮にどこかに、そんな役をしてくれそうな者が居たとしても、募集広告を出す金がない。雇う金もない。従って意識の眼すなわち真我の場合は、モノの色や形を見るためには、自らがモノと一体化してモノとの間に接点を作るしかないわけである。
自分とモノとの間に直接的にか間接的にか接点を持たない者はモノを見ることはできない、という事実は、理科的な思考のできる方ならば誰しもが認めざるを得ないところであろう。一体全体、自分とモノとの間にいかなる接点も持たない者に、どうしてモノを見ることが可能だろうか。そんな奴はモノの情報に接することができないので、モノを見ることなどできっこない。
このようなわけで、真我はモノを見る意識の眼であるという事実と、真我はモノと一体化しているという事実は、表裏一体の関係もしくは不可分の関係にあると言える。
さてそうはいうものの、以上のような話は、真我という意識の眼の存在をまだ認めておられない方々すなわち、我々は肉体の眼だけでモノの色や形を見ているものだとばかり思い込んでおられる方々にとっては論外もしくは「マユツバ」ではあるかも知れない。そのような人たちに対して、真我という意識の眼の存在を、言葉だけで受け入れていただくスベを私は知らない。真我という意識の眼の存在は結局のところ、心を脇に置いてモノの色や形を見ることの中で、体験を通して了解するしかないものなのだから。
その存在を体験的事実として了解し得た暁には、あなたにとって世界とは、真我によって認識されたもの以外の何物でもなくなる。世界は真我の認識の中にだけあるのだ。
(27)に続く
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