心と真我


(27)実生活という名の夢

私事になるが、今朝は夢の途中で眼が覚めた。風雨の中である作業をしている夢だ。なんでこんな夢を見たのかなと思っていたら、寝床の横の開けたままにしてあった窓から冷風が入っていることに気が付き、「これに体が刺激されて、ああいう夢が生じたんだな」と合点がいった。こういうのを、ある夢の分類の仕方では雑夢と呼ぶらしい。体に受けた刺激とか、日常での体験に触発されて生じる夢のことである。
それがもとで何とはなしに夢のことに思いを巡らせていたら、あることに思い至った。最近当サイトで見ることに関する話を続けているせいでもあるのだろうがそれは、「夢の中では瞬き(まばたき)したり眼を閉じたりはしないものだな」ということ。いやひょっとしたら本当は、夢の中でもそういうことはあるのかも知れないが少なくとも、記憶にないことだけは確かだ。夢を見ている時って、そういうことをイチイチ気にかけてないからでもあるのだろうが。
で、続けて思ったのは、夢の中でも眼を閉じたらモノが見えなくなるんだろうなってことである。夢は実生活の写しなのだから、当然そうあるべきだと思うのだがその一方で、夢は脳内の映像であるという事実に鑑みると「もしそうだったら変じゃないか」という気もまたしないではない。夢が脳内の映像だとしたら、夢の中に居る時は眼を開けていようが閉じていようがモノが見えるはずだ、という理屈も成り立つわけだから。
とはいえ、専門的に調べると夢にも色々な種類があり、例えばその中には、霊夢と称される予知的な夢があったり、「対外離脱」がらみの夢があったりして、一概に全ての夢を脳内の映像としては括れない面もあるのだが少なくとも、私が今朝見たような雑夢の類は脳内の映像として扱うことができる。私が今取り上げているのは夢は夢でも、この雑夢のことだとお受け取り願いたい。
夢は脳内の映像であるという前提に立つと、夢の中では眼を閉じていてもモノが見えるはずだと推測することもできる。と同時に前述のように、夢は実生活の写しなのだから、実生活と同じく眼を閉じたらモノは見えなくなるはずだという、それとは逆の推測にもまた一理がある。今度夢の中でこのことを思い出せたら、どちらが当たっているか試してみる価値はありそうだ。
いずれにしても、私がここで取り上げたいのは、「夢の中で眼を閉じたらモノが見えなくなった」という場合のことである。
仮に夢の中で、眼を閉じてモノが見えなくなったとしたら、言うまでもないことではあるだろうが、そのこともまた夢の一部に他ならない。そこにおいては、眼を開けてモノを見ている状態が夢ならば、眼を閉じてモノが見えなくなっている状態もまた夢なのだ。そこにあるのは、眼を開けたらモノが見え眼を閉じたらモノが見えない、という実生活上の体験さながらの夢である。
さて話は飛ぶが、悟りの世界から眺めたら、我々が日々営んでいるこの実生活自体もまた夢である、と申し上げたら驚かれるであろうか。悟りの世界から眺めたら、すなわち真我という意識の眼をもって自分の実生活を眺めたら、それ自体が一つの夢として映るのだ。
この実生活という名の夢はご存知のように、先ほど取り上げた夢と同じく、眼を開けたらモノが見え眼を閉じたらモノが見えない、という法則に支配されている。我々は日々その中にあって、眼を開ければモノが見え眼を閉じればモノが見えなくなる、という夢を見続けているのだと言える。
従って一つの捉え方として、我々は眼を通してモノを見ている時、眼を通してモノを見ているという夢を見ているのだとも言える。そして最も肝心なのは、その夢の目撃者(認識者)こそが真我なんだってことである。
(28)に続く
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