心と真我


(28)考えても分からぬこと

五感の働き全てにおいて、真我による認識作用が働いている。すなわち、見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触って感じたりすること全てにおいて、真我による認識作用が働いている。
我々が見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触って感じたりしているものは全て、真我によって認識されたものなのだ。
このように申し上げると、次のような問いを抱かれる向きもあろうかと思う。いや、というよりもむしろ次のような問いは、真我の発見を意味する悟りに到るまでは、誰しもが抱かずにはおられないものであるに違いない。
見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触って感じることといった肉体上の出来事に真我という肉体を超えた存在が、もっと言うと、真我という肉体も心も超えた不可視の存在が、どのような仕組み、どのようなカラクリ、どのようなメカニズムによって絡むことができるのか? どのような仕組み、あるいはカラクリ、あるいはメカニズムが、五感が捉えた物質界の情報を真我に認識させ得ているのか? 真我という不可視の存在は何故、五感が捉えた色や形、音、臭い、味、感触といった物質次元の事柄を認識することができるのか? 
だが残念ながら、こうした問いに対する答えを私は持たない。そういうことは私にもまた分からないのだ。それは私だけではなく、全ての人々にとっての永遠の謎の一つと言ってもよいだろう。前出のような問いは例えば、宇宙はどのようにして生まれたのか? といった問いにも匹敵する根源的な問いであろうとさえ私は思っている。
私が皆さんに指摘できるのはただ、我々の五感が捉えたものは全て真我によって認識されている、という事実だけだ。言い換えるならば、我々が見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触って感じたりしているものは全て、真我によって認識されたものであるってことだけだ。何故それが可能なのか、という点にまでは言及することができない。
何故それが可能なのかは誰にも分からなくても、事実としてそれはある。ちょうどこの宇宙が、出来上がった経緯を知る人が一人もいないにも関わらず、事実として存在しているのと同じように。
我々にできるのはただ、その事実を何も考えずに受け入れることだけだ。が、中には、どうしても考えずにはおられない、という知的好奇心旺盛な方もしくは暇な方もおられるかも知れない。そのような方には、次のように申し上げておきましょうか。
いい加減にせいっ! じゃなくて……
もしもあなたが悟りを求めておられないのであれば、それについて気のすむまでコケのむすまでお考えなさい。もしもあなたが悟りを求めておられるのであれば、そんなことを考えるのは悟った後にしなさい。
このように申し上げるのは、悟りすなわち真我の発見に到る唯一の道は心を脇に置くことであり、心を脇に置くためには、前述のような真我の働きについて考えたり、追求したり、分析したりすることさえも止める必要があるからだ。
蛇足ながら最後に付け加えておくが、考えることを止め、イメージすることも止め、感じることさえも止めてモノの色や形だけを見ることに徹するという方法は、心を脇に置くための代表的な方法の一つと位置づけておかれたい。
(29)に続く
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