心と真我


(31)五感情報は真我という意識の中にあるってことを、もう少し詳しく述べてみたい

我々が眼にする色や形の全ては突き詰めると、真我という意識の中に存在していると言える。赤も青も黄も、丸も四角も三角も突き詰めると、真我という意識の中に在るのだ。我々が眼にする色や形の全ては真我によって認識されたからこそ、我々の前に存在し得ているのだから。真我がそれらを認識しなかったら、あるいは、それらを認識する真我がなかったら、それらは我々の前に存在し得ない。だから、冒頭のように言えるわけである。
念のために申し添えておくが、ここに言う「色や形の認識」とは、色や形を感じることなのではない。そうじゃなくて、色や形それ自体を見ることである。色それ自体、形それ自体を見ることが、ここに言う「色や形の認識」の意味である。私の見たところ、どういうわけか両者は混同されやすい。もちろん日本語の使い方として、色や形を感じることを以って「色や形の認識」とすることも無いではない。が、その言葉がこと真我の働きを説明する文脈の中で使われる場合には、色や形それ自体を見ることを指しているのを、お忘れなく。
ところで、以上のことを裏から眺めると、こうも言える。
色や形を認識する真我があっても、その真我に対して色や形を認識させる何かが無かったら、その場合もやはり、色や形は我々の前に存在できない。ということは結局、色や形を認識する真我と、真我に色や形を認識させる何かと、二つがピタッと合わさってはじめて、色や形は我々の前に存在できるってことに他ならない。どちらか一方が欠けても、色や形は我々の前に存在できないのだ。
ではここで、そのような両者の関係を視覚的なイメージで表現してみよう。
まず真我に色や形を認識させる何かについてだが、これを仮に一枚のカラー写真になぞらえるとすると、真我はさしずめそのカラー写真にピタッと重なったガラス板ってことになるだろう。細かいことを申せば、カラー写真にピタッと重なったものでありさえすれば別にガラス板じゃなくてもよいのだが、ガラス板のような透明なものの方が、真我という不可視の存在をなぞらえるにはベターだとは言える。
というわけで、真我と真我に色や形を認識させている何かの関係を、もしも私が視覚的なイメージで表現するとしたら、ガラス板とその下に敷かれているカラー写真の関係になる。ただし、これには補足事項がある。そのガラス板はただのガラス板じゃなくて、その下に敷かれているカラー写真上の色や形を認識する働きが備わっている、という条件が付くのだ。もしそうじゃなかったら、そのガラス板は、真我の象徴とするにはイマイチ不足ですよね。
言うまでもなく今のところ現実には、下に敷かれているカラー写真上の色や形を認識できるガラス板なんてものはないが、ここではそういうものがあると想定して、それを真我の象徴と見なしていただきたいのである。そして、真我と真我に色や形を認識させている何かの関係を、そのガラス板と下に敷かれているカラー写真の関係になぞらえながら、視覚的なイメージで把握していただければと思う。
さて察するに、前述のような話をすると自然な成り行きとして、多くの方は次のような問いを抱かれるのではないだろうか。
「そのカラー写真が象徴しているもの、すなわち真我に色や形を認識させているものとは、そもそも一体何なのか?」
が、はぐらかして申し訳ないが、真我に色や形を認識させているものに関して、ハッキリと申し上げられるのは次のことだけである。
「それが何であるにせよ、それには実体が無い」
それには実体が無いのだ。何故そう言えるかというと、それが存在できる時間は絶対の今を措いて他にないことは誰しも否定できないはずだが、ではその絶対の今とは何か、ということを最後まで掘り下げて行くと、そこには何かが存在するために必要な時間の幅が皆無であることが判明するからである。
それが存在できるのは絶対の今だけである(過去は既に無く、未来はまだ無いから)。然るに、その絶対の今には、何かが存在するために必要な時間の幅が全く無い。従ってそれは存在しているのではなく、存在しているかのように見えているだけである、すなわちそれには実体が無い。という論法だ。
それは、有るかのごとく見えていながら本当は、実体を持たない。そう言えば、禅書に時たま登場する「有るがままの有りつぶれ」という言い回しは、その辺りの消息を表しているものと思われる。
これについては「悟談」の『柳は緑、花は紅』でも触れたことだし、また今回の話の中心でもないのでこれぐらいにしておくが、付け加えておきたいのは、真我に色や形を認識させているものの正体は分からなくても、真我の発見(または体現)を意味する悟りの妨げには全くならない、ということ。
話は変わるが、もう一つ私が察するのは、次のことである。これまでの説明にも関わらず、我々が眼にする色や形は真我という意識の中にあるってことを、ほとんどの方々はまだ感覚的に受け入れることができないだろう。
ほとんどの方々に、感覚的な部分でイマイチそれを飲み込みにくくさせている要因はおそらく、色と形を持つものの多くは触れば感触があり、叩けば音がし、嗅げば臭いがあり、舐めれば味がする、という事実にあるのではないだろうか。何故ならそういうことが念頭にあると、人はどうしても人情として、色や形が存在している場所はあくまでも物的な世界であって、物的な要素が皆無な意識の中にそれが存在しているはずがない、といった感を強くしやすいものであるから。
だがそのような方でも、次の事実に思いを馳せれば、少しは見方が変わるかも知れない。それは、モノの感触や音や臭いや味といったものもまた、モノの色や形と同じく真我という意識の中に存在している、ということである。
視覚だけではなく、それ以外の感覚器官を通して我々が受け取る物的な世界の情報もまた一つ残らず、真我によって認識されたものであり、真我という意識の中にこそ存在しているのだ。
(32)に続く
TOP INDEX BACK NEXT