悟りは私とは無縁のものである

その一

悟りは私がやらかすものだとばかり思っておられる向きには意外に映るかも知れないが、悟りは私がやらかすものではないのだ。
ここに言う私とは悟り以前の人から見ての私つまり心(心身でも良いが…)のことだが、悟りは心(もしくは心身)とは別の次元にあるものなので、そのように言うことができる。
悟りは心とは別の次元にある、ということは取りも直さず、心である私によって為されるいかなる努力も悟りのためには功を奏しない即ち、悟りには通用しない、ということである。それは例えて言えば、部屋の中で射るいかなる矢も屋上に居る人には当たらないようなもの、あるいはまた、海中に張り巡らしたいかなる網も空を飛ぶ鳥にはかからないようなもの。
では、悟りのために私にできることは皆無なのかというとそうでもなくて、消極的な意味に限ってならば、私にできることが一つだけある。何かというと、とっとと消え失せることだ。
私が消え失せた時だけ、引っ込んだ時だけ、悟りは向こうからやって来るものなのだから。
それを考えると、悟りの何たるかを把握しようとしたり把握したつもりになったり、、悟りに到ろうとしたり到ったつもりになったりすることが、如何に悟りの役に立たないものであるかが、お分かりになるであろう。
それら全てが悟りの役に立たないのは言う間でもなく、私が消え失せることや引っ込むことに逆行しているからに他ならない。「そんなことしてあんたが前に出てきたらあかんのよ、悟りたいのだったら!」てなもんよ。
悟りは私がやらかすものじゃない、ということに対して、自分の出番がなくてつまらないと感じておられる向きはまず次のように考えてみていただきたい。
もし仮に、悟りというものが私によってなされるものであったとしたならば果たして、悟りは私を超えたものであり得るだろうか?
私によってなされるものが私を超えたものであるわけはないので、答えはノーに決まってますよね。で、次に考えてみていただきたいのは、自分はそんなありきたりなものを悟りに求めているのだろうか? ということである。

その二

世間一般には何か高尚なもののように思われているくせに、実際にそれを手にしている者から見ると自慢のジにもならないものが、この世に少なくとも一つある。それは悟りだ。
悟りを手にしている者はそれを自慢の種にできないのである。できたら三万やる、てなことを誰かに言われた日にゃあ、高度なエンゲル係数を誇る我が輩としては心を動かされてしまうが、それでもできないものはできない。
悟りを手にすると謙虚になるからだろう、てなことを思われた方、ハッキリ言わせてもらいましょう。おまんの言うことは筋が通っちょる……じゃなくて、あなたは悟りってものが全く分かってらっしゃらない。誤解するのもいい加減にしやしゃんせ! てなもんよ。
ところで私は今、「悟りを手にする」という言い回しをしたが、本当は悟りは手にするものではないのだ。もちろん、ケツに刺すものでもありませんがね。だから本当はその言い回しは間違っている。難しいかも知れないが、悟りは私が何も手にしてない時だけ、そこにあるものなのである。
とはいえ言い訳みたいになってしまうが、冒頭の文脈の中で、そういう言い回しの他に一体どんな言い回しが使えるというのだろう。
文章……というより悟りに関する文章を書く場合には、正確ではないことを承知の上で使わざるを得ない言い回しが多々あるものだが、これもその一例である。
私とて、それとは別の言い回しはないものかとしばし首をねじってはみた、いや頭をひねってはみた。が、どんな代案も難があるという点では同じようなものであった。
例えば、「悟りに達する」という言い回しを選んだとしよう。これのどこに難があるのかと言うと、悟りは達するものではない、という事実に反している点だ。そう、悟りは達するものでは断じてないのである。言い換えると、悟りは私がどこにも行こうとしてない時に限ってそこにあるものだ、とも言える。
それならばいっそのこと、「悟りを手にする」でもなく「悟りに到る」でもなく、「悟る」という端的な表現にしたらどうか、てなことも一応考えてはみたが、それにもやはり難があったのだ。
奇をてらってんじゃねえよ! と言われるのを覚悟で言わせてもらうならば、悟りとは何かを悟ることではないからである。これまた逆説的な表現になってしまうが、悟りとは私が何も悟ってない時に限って、そこにあるものなのである。
逆説的で分かりにくい表現の羅列になってしまったが、真意は分からないまでも、悟りは私がやらかすものではない、というニュアンスだけは汲み取っていただけたのではないだろうか。そう、悟りとは私がやらかすものではないのである。色々なことをやらかす私が退いた時だけ、そこにあるのが悟りなのだ、とも言える。
そういうわけなので、悟りというものは「手にしても」「達しても」「成し遂げても」決して自慢の種にはならないのだ。
例えばここに、何らかの事情があって、自分の勤めている会社を長く休めることになった者が居るとしましょうか。その彼が、もし仮にですよ、自分の休暇中に会社が急成長したのを知ったとしたら、一体どんな気持ちになるだろうか、ということを考えていただきたいのである。
果たして彼は、その急成長を遂げた会社の一員であることを、世間に向かって誇る気持ちになれるであろうか。そんなことは、ないはずである。自分が今まで会社の足を引っ張っていたのではないか、と落ち込むことはあったとしても。
少なくとも彼は、会社の成長に自分が関与してないことだけは知っているので、そこの会社員であることを世間に向かって誇ることだけはしないはずである。というより、したくてもできないはずである。常識のある人ならば。
この急成長した会社と彼の関係に類似しているのが悟りと私の関係だと言えよう。
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