心と真我


(33)真我という認識者の存在を理論的に裏付ける試み

前回の夢の話とも関係しているが、眼に映る色や形をはじめとする五感情報は、ある視点から眺めると、真我という意識の中にある、あるいは真我の認識の中にある。が、誰にとってもそのことは、真我の発見を意味する悟りが起こるまでは、秘められたままになっている。悟らない限りそのことは、分からないようになっているのだ。
が、悟る前の人にそのことを、せめて理論的にでも分かっていただくスベはないものか、と考えてみたところ、ないでもないってことに思い至った。
五感情報の全ては真我の認識の中にあるってことを、せめて理論的にでも納得なさりたい方は、まずは次のことを考えてみていただきたい。
「我々は何故、五感情報の全てすなわち、色形、音、臭い、味、感触といったものが、自分という一人の人間の中で体験されていることを知っているのだろうか?」
いかがであろう。それぞれ種類の異なる五つの感覚情報が、自分という一人の人間の中で体験されていることぐらいは誰でも知っておられるはずだが、では何故、我々はそのことを知っているのか? ということになると、ほとんどの方は即答できずに考えこんでしまわれるのではないだろうか。
我々は何故、そのことを知っているのだろうか。思考によってだろうか。いや、それは違う。例えば「五感情報の全ては、この肉体という一つの器を通してキャッチされている。だから…」てなツジツマ合わせを我々は、頭の中でしているわけではないのだから。そうすると我々は、思考を超えた感覚によってそのことを知っているのだろうか。いや、それもまた違う。五感情報の間に我々は、統一感だの自分への帰属感だのを感じているわけではないのだから。
結局のところ最後まで考えをにつめて行くと、前出の問いに対する皆が納得できる答えは次のようなものでしかあり得ない、という結論に誰しもが辿り着くことだろう。
「五感情報の全てには、共通の認識者が居る」
その共通の認識者のことを私は真我とみなしているわけだが、真我の発見を意味する悟りに到ってない方からしてみると、前述のような物言いはまだ仮説の域を出ていないように映るに違いない。が、仮にそうだとしても、前述のように考えないことには先ほど説明のつかなかったことが、説明のつかないまま残されてしまう。先ほど説明のつかなかったこととはもちろん、五感情報の全てが自分という一人の人間の中で体験されていることを我々は何故、思考や感覚を経由せず直に知り得ているのか、という問題である。
五感情報の全ては真我の認識の中にある、あるいは真我という意識の中にある、ということを理論的に裏付けるための論法の一つは以上のようなものである。
(34)に続く
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