心と真我


(34)前回の話を補足する

前回、次のような問いを皆さんに出させていただいた。
「我々は何故、五感情報の全てが、自分という同一者の中で体験されていることを知っているのだろうか?」
ご記憶のように、これに対する私の見解は、「五感情報の全てには、真我という共通の認識者が居るから」といったものでした。が、どういうことなのかよく分からなかったという方のためにもまた、分かることは分かったが理解をより確かなものにしたいという方のためにも、今回あらためて、前出の問いに向き合ってみたい。
前出の問いに私が込めた意味合いをより深く汲み取っていただくにはまず、五感情報の全てが同時に自分の中に入って来ているような場面を、具体的にイメージしてもらうのが望ましい。もっと言うと、その五感情報の間に脈絡や一貫性が無かったら、さらに良い。五感情報の間に脈絡や一貫性が無い方が、前出の問いに私が込めた意味合いがより鮮明になるはずだから。
これから、そういう場面のサンプルをひとつ挙げさせていただくので、イメージを働かせながら話についてきてください。
場面の場所は……そうですね、特に深い意味はないが、川辺ってことにでもいたしましょうか。
ということでまず、とっかかりとしてイメージしていただきたいのは、あなたが川辺に立って川の流れを見ておられるところである。
仮にあなたが今、川辺に立って川の流れを見ておられるとしたら、眼には当然ながら川の流れが映っていることになるわけだが、さらに、そこに風でも吹いていれば肌はその涼しさを受け取り、近くにキンモクセイでも咲いていれば鼻はその香りを受け取り、後ろに車でも走っていれば耳はその音を受け取り、あなたのお口にキャラメルでも含まれていれば舌はその味を受け取っていることになる。
例えばこういった、間に脈絡や一貫性が無い五感情報が同時に全部自分の中に入って来ている状況下にある時でも、自分に当てはめて考えてみればお分かりのように、我々は何故か次のことだけは知っているものだ。
川の流れを見ている者と、風の涼しさを感じている者と、キンモクセイの香りを嗅いでいる者と、車の音を聞いている者と、キャラメルの味を味わっている者、これらは全て自分という同一者であって、個々別々に存在しているのではない。
早い話が「五感情報の全ては自分という同一者によって体験されている」ということだが、ここでもう一度冒頭の問いを繰り返させていただこう。
「我々は何故、そのことを知っているのだろうか?」
前述のような状況下にある時でも我々は、それぞれに異なる五種類の体験によって分裂させられることもなく、「そのこと」をちゃんと知っている、それは一体何故なのか?
もし仮に我々が、前述のような体験が過ぎ去った後、後付けで「そのこと」を知ったとでも言うのなら、思考とか感覚(感じ)といった心の働きを、知った理由の候補として挙げることもできるだろう(思考と同じく感覚もまた「後付けの知」であることは、『絶対の今は感覚よりも速い』を読まれていればお分かりのはず)。だが、実際はそうじゃなくて我々は、刻々に推移し続ける体験に一瞬の遅れも取ることなく、体験と同時進行で「そのこと」を知っている。その知は真の意味における即時のもの、リアルタイムのものだ。従ってそこには、思考や感覚の介在する余地はない。難しいようでしたら、こう考えていただいてもよい。我々は思考や感覚のお世話にならなくても「そのこと」をちゃんと知り得ている、と。
以上の事実に鑑みてもやはり、前回申し上げたように、我々が「そのこと」を知っている理由は次のようなものでしかあり得ない、と言える。
「五感情報の全てには共通の認識者が居る」
眼に映る色や形をはじめとする五感情報が単に肉体上の体験に過ぎないのであれば、五感情報の体験者は五者存在することになってしまうがこれは、「五感情報の体験者は自分という同一者である」という我々の動かしがたい理解に反している。五感情報が単なる肉体上の体験ではなくして、共通の認識者によって認識されているものだからこそ我々は、「それら全ては自分という同一者の中で体験されている」という理解を持ち得るのだと考えるしかないのである。
この共通の認識者を真我すなわち我々にとっての本当の自分と位置づける理由については、後日触れることにしたい。
(35)に続く
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