心と真我


(36)純粋認識

五感情報の全ては自分という同一者の中で体験されている、ということを我々が知っている背景には次の事実があることを私は指摘した。
「五感情報の全ては(真我という)共通の認識者によって認識されている」
が、私は敢えて、次の問題には触れないままにしておいた。
五感情報の全ては自分という同一者の中で体験されている、ということを認識している主は誰なのか? この問題に触れなかったのは話を煩雑にしたくなかったからなのだが、ここでは、その答えを申し上げてもよいだろう。その主は実は、真我自身なのである。すなわち、五感情報の全ては自分という同一者の中で体験されているという認識は、真我自身から来ているのだ。
この認識が真我から来ているということが分からない方でも少なくとも、この認識の出所が心じゃないってことだけはお分かりになるのではないだろうか。この認識の出所が心じゃないという意味は、心の働きである思考やイメージや感覚などを通して我々は、この認識を得ているわけではないってことである。
自分の中にあるこの認識、すなわち「五感情報の全ては自分という同一者の中で体験されている」という認識をチェックしてみれば、以上のことは自ずから見えてくるに違いない。我々は思考やイメージや感覚などを通して、この認識を得ているわけではないのだ。それらが生じる前に既に、この認識は我々の中にある。そして、この認識の存在に我々が中々気づきにくいのは、それが思考やイメージや感覚といった心の働きを通して得られたものではないからに他ならない。
思考やイメージや感覚といった心の働きを通して得られた認識ならば我々は、誰に指摘されなくても、その存在に気づくことができる。そこには必ず「自分はこのことを知っている」という手ごたえなり実感なりが、大なり小なり伴っているものであるから。それに対して、心の働き以前に存在する真我による認識の場合は、「自分はこのことを知っている」という手ごたえや実感が伴わないので、その存在に我々は中々気づきにくい。くだんの「五感情報の全ては自分という同一者の中で体験されている」という認識とてその例にもれるものではないので、「そういうもの(認識)が我々の中にはありますよね」と私のような他者に指摘されるまで、その存在に気づかなかった向きは少なくなかったはずだ。
前述のような真我による認識、あるいは真我から来る認識の存在に我々が中々気づきにくいのは、繰り返しになるが、それが我々の心に「自分はこのことを知っている」という手ごたえや実感を作り出さないためであり、そうなるのは正に、その認識が心の働きである思考やイメージや感覚などを通して得られたものではないからに他ならない。が、それにも関わらず、「こういう認識が我々の中にはありますよね」と指摘されると誰もが直ちにうなづかざるを得ないってところに、真我による認識の一大特徴があるとも言える。認識の存在には気づかれにくくても、認識それ自体は歴然として我々の中にあるので、そうなっちゃうわけである。
ついでにもう一つ、真我による認識の例を挙げておくならば、「世界は三次元の広がりを持っている」という認識がある。この認識もまた真我から来ているのだ。と言っても、もちろん我々は、真我ならぬ心においても同様の認識を持つことはできる。が、その心を脇に置いてもなお、「世界は三次元の広がりを持っている」という認識は我々の中に残るものだ。それは心とは別に、真我という世界の広がりの認識者が、我々の中にあるからに他ならない。
あるいは、こうも言える。我々はまずはじめに真我を通して、「世界は三次元の広がりを持っている」との認識を得ているからこそ、後付けで心に同様の認識を持つこともできるのだ、と。
心の働き以前に我々の中に存在するこの「世界の広がりに関する認識」および前述の「五感情報の全ては自分という同一者の中で体験されているという認識」、これら二つによっても明らかなように、我々の中には、心による認識の他に真我による認識というものもまたあるのだ。この認識は心の働き以前に存在するものなので、この認識の中にある時我々は「思考によってではなく、イメージによってでもなくまた、感覚(感じ)によってでもなく、ただそのことを知っている」という状態になる。我々は、世界の三次元の広がりを「ただ知っている」のであり、五感情報の全てが自分という同一者の中で体験されていることを「ただ知っている」のである。
この「ただそのことを知っている」という真我による認識に、呼び名を付けるとしたらさしずめ「純粋認識」というところだろうか。西田幾多郎の言う「純粋経験」の向こうを張っているように思われるかも知れないけれども。
(37)に続く
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