心と真我


(37)心の働きにも認識者が居る

心の働きである思考やイメージや感覚(感じ)のそれぞれにも認識者が居る。
ピンと来ないって方でも少なくとも、我々は自分の思考やイメージや感覚などの中身(内容)を認識できている、という事実はお認めになるであろう。中には、我々は何故それらを認識できるのだろうか? といった疑問を抱いたことのある方もおられるかも知れない。
いずれにしてもこの、我々は自分の思考やイメージや感覚などの中身を認識できている、という事実一つだけで、我々の中にはそれらの認識者が居ることの十分な証明たり得ている。考えてもみられたい。我々の中にそれらの認識者が居なかったらどうして、我々はそれらを認識できるものだろうか。我々がそれらを認識できているってことは取りも直さず、我々の中にそれらの認識者が居るってことなのだ。
この理屈は、我々にモノが見えるのは我々に眼があるからだ、という理屈と変わりがない。我々に眼が無かったらモノは見えない。故に、我々にモノが見えるってことは我々に眼があるってことだ、という理屈の分からない方はまさかおられますまい、私以外には、いや違った、私も含めて。
さてその、思考やイメージや感覚といった心の働きの認識者に関して、押さえておくべきことの一つは、それは五感情報の認識者と同じものだってことである。両者が同じものってことは言い換えれば、我々の中のある一者が、心の働きと五感情報の両方を(掛け持ちで)認識しているってことでもあるわけだが。
だからこそ我々は、心の働きと五感情報のどちらもが、自分という同一者の中で体験されているってことに矛盾を感じないでいられるのだと言える。もしそうじゃなかったら、すなわち心の働きの認識者と、五感情報の認識者が別物であったとしたら、泣いちゃうよオレ!じゃなくて……我々は「心の働きと、五感情報とは、どちらも自分という同一者の中で体験されている」との自覚を持てなかったことだろう。
こういう論法が成り立つことは、「心と真我」をここまで順繰りに読んでこられた方なら既にご承知ですよね。前にも同じような話をさせていただいたから。で、これもまたご承知済みかと思うが、私の見立てでは、その心の働きと五感情報の全てを認識している一者こそが、真我すなわち我々にとっての本当の自分に他ならない。
このようなわけで、思考やイメージや感覚といった心的な世界に属するものと、五感情報という物的な世界に属するもののどちらもが、真我という一者によって認識されている、あるいは見られていることになる。「見ることにかけては貪欲なアッシでやんす」とでも言いたげな真我ぜよ。ということは、我々が心に抱く思考も、イメージも、感覚も、我々が五感を通して受け取る色も形も、音も、臭いも、感触も、味も、はたまた酒もタバコも嘘までも、真我という名の目玉に映る景色なのだ。心的なものであれ、物的なものであれ、我々が認識しているもので、真我という名の目玉に映る景色ならぬものはない。
が、その目玉には決して映ることのないものが、一つだけある。その目玉自身が、それだ。目玉にどうして目玉自身が映るだろう。それは、ガンにガンがうつらないのと同じことである。ちょっと違うか。いずれにしても、真我という名の目玉に映ったものだけしか我々には認識できないという事実、言い換えるならば、真我が認識するものが我々の認識するものという事実に鑑みるとそれは、次のことを意味してもいる。
我々は真我を認識の対象とすることはできない。我々にとって真我は、視野に入らぬものなのだ。
さて、それはそれとして私が思うのは、「思考やイメージや感覚には認識者が居るのではないか?」という問いを、これまで一度でも抱いたことのある人がもしおられたとしたらある意味、鋭い洞察力のある人だなってことである。それは例えばの話、催眠術をかけられて自分の目玉の存在を忘却させられた人が、論理的な思考の結果「自分にモノが見えてるってことは、それを見ている何かが自分には付いているってことではないか?」てな問いに辿り着くのと同じようなことであるから。しかしそういう核心を突くような問いを持ちえた人といえども、前述のような理由により、思考やイメージや感覚の認識者である真我の存在を突き止めるところまでは中々行けないのが残念である。
(38)に続く
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