心と真我


(38)人生が一本の映画なら

人生は一本の映画になぞらえられることがある。
もしも私の人生が一本の映画だとしたら、映画の主人公に当たるのは心と体から成る個体としての私であり、映画の見物人に当たるのは真我だと言える。真我は、個体としての私がこの人生で体験する様々なことを、目撃あるいは認識する立場にあるのだから。個体としての私がこの人生という名の映画の主人公なら、真我はその映画の見物人である。
さて映画は映像と音声でできているので、主人公が見たり聞いたりしていることが見物人に分かるのは当然としても、それと併せて、主人公の内的な世界(心の中)にあるものまでも見物人には分かるものだ。
主人公の内的な世界にあるものとは具体的には、思考、イメージ、想像、感覚、感情、といったものだがそれらの内、「思考」はセリフやナレーションによって、「イメージや想像」は映像によって、「感覚や感情」はセリフとそれに伴う顔の表情、身振り、声色などによって表現されることが多いのは、ご存知の通り。
そういう映画の前に身を置き、主人公が見たり聞いたりしていること及び、主人公の内的な世界にあるものに接している時の彼らはやはり、真我に似たところがある。全部が全部似ているとは言えないまでも、似たところがあるのは確かだ。何故なら真我の働きは、個体としての私が五感で受け取る外界の情報及び、個体としての私の内的な世界にあるものを認識することにあるのだから。
映画の見物人が画面を通して、主人公の外的内的な体験に接するような感じで、真我は個体としての私の外的内的な体験を認識しているわけである。
従って例えばの話、あなたがトイレの中で、「真我よ、真我、真我さん、トイレに入っている時ぐらいアッチ向いててよ…」てなことを仮に思ったとしても、その心の思いはもちろんのこと、そこであなたが眼にしている壁の落書きも、耳にしている水流の音も、腹に込めた力の加減も、何もかも全ては真我に見られているという次第だ。私の言う真我の働きとは、具体的にはそういうことである。そういう働きを持った真我と個体としての私の関係って、映画の見物人と映画の主人公の関係によく似ているでしょう。
が、それはそれとしてよくよく考えてみると、前述のような、トイレに入ってるとこを真我に見られたくない、といった発想は、変過ぎると言えば変過ぎる。何故なら突き詰めれば、「真我が見ていること、認識していること」とは「私が見ていること、認識していること」に他ならないわけだから。これ、お分かりになりますかね、皆さん。真我と私の関係を理解する上で、多くの人に飲み込みにくい点がもしあるとしたら、そこのところかも知れない。いずれにしてもそこのところは、両者の関係を、映画の主人公と映画の見物人の関係になぞらえる時の補足事項とさせていただきたい。
(39)に続く

(39)悟り以前と悟り以後、知ってることの違い

こんなことを申し上げると頭がクラクラする向きもあるかも知れないが、我々が今眼にしているモノの色や形は実は、「この世界という映画」の外側から来る意識、もしくは「この世界という映画」を外側から見ている意識によって認識されているのだ(ここに言う認識とは、対象を有りのままに見る働きのことなので、目撃と言い換えてもよい)。ちなみにその証拠の一つは、我々は眼するモノの色や形と共にそれが置かれている三次元空間の広がりをも認識できる、という事実である。この話は他のところ(「悟談」の『真我は垂直の次元に在り』など)でもしたので、これ以上はしませんけれども。で、その我々が眼にしているモノの色や形の認識者、すなわち「この世界という映画」を外側から見ている意識を私は真我と位置づけ、その真我の発見を悟りと定義している。
だから私に言わせれば、悟り以後の人と悟り以前の人との違いは、前述のような真我の存在を体験的事実として知っているか否かってことになるが実は、両者が共通して知っていることもある。それは真我によって認識されている対象である。それだけは、悟り以後以前に関係なく誰もが皆知っているものだ。
で、その真我によって認識されている対象には色々あって、冒頭で取り上げたモノの色や形をはじめとする五感情報もそうだし、心の働きである思考やイメージや感覚もそうだし、またこれから取り上げる予定の、瞑想中の体験とか神秘体験とかもそれに当てはまる。要するに、外的なものであれ内的なものであれ、我々に認識できるものの全てがその中に含まれている、ということである。
これが何を意味するかお分かりだろうか。冒頭の話の続きになるが、それは取りも直さず、我々の対象を認識する働きは真我から来ているってことである。我々の対象を認識する働きは本当は、真我から来ているのだ。従って、我々が今認識しているものは何であれ、真我が今認識しているものってことになる。我々が今の今認識している色や形も、音も臭いも味も感触も、思考もイメージも感覚も、全ては例外なく今の今、真我によって認識されているものに他ならない。真我が今の今認識しているものが、あなたが今の今認識しているものだ。
悟り以前の人すなわち真我の発見に到ってない方でも真我によって認識されている対象に限っては知っている、と申し上げるのは、そういうわけだからである。彼らは五感情報や心の働きなど、真我によって認識されている対象だけは知っている。でも、繰り返しになるが、それらの認識者である真我のことはまだ知らないままだ。あたかも、前回の話に出てきた「目玉に映っているモノは見えているが目玉のことは忘却中の人」みたいに。これは、悟り以後の人が、「双方」を知っているのとは対照的である。
最後にそんな悟り以前の方々に、お尋ねしたいことがある。私がここまで話をしても、あなたには信じられるだろうか。
あなたのその、眼に映るモノの色や形を認識している意識すなわち真我の見る働きは実は、この世界とは異なる別の世界からやって来ているんだってことを。
(40)に続く
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