心と真我


(40)真我と同じ視点に立つ

私(心と体から成る個体としての私)と真我の関係を、映画の主人公と映画の見物人の関係になぞらえさせていただいたが本当は、細かいことを申せば、このなぞらえ方では私と真我の関係が正しく表現できてない部分があるのだ。その意味は、次の事実を指摘すればおわかりいただけるに違いない。
「映画の見物人は映画の主人公の全身を見ることができるのに対して、真我は私の全身を見ることができない」
そう、真我は私の全身を見ることはできないのだ。映画の見物人が映画の主人公の全身を見ることができるのとは裏腹に。何故って? それは後で解説いたしましょう。
この違いにこだわる限りでは、私と真我の関係を、映画の主人公と映画の見物人の関係になぞらえるのは避けたいところではあるのだが、ママがそうしろそうしろって言うものだから、じゃなくて……、総合的に見たらマア悪くないだろうってことで、ああいうなぞらえ方をさせてもらった次第である。
真我が見ることができるのは、私の全身ではなくしてその一物、いや一部である。具体的には、私の眼に映る首から下だけをヤッコさんは見ることができる。それも、私の眼に映る景色の中で一番下の部分に。背中なんか見ようったって無理な話だ。私がヨガでもおっぱじめて体が柔らかくなり、自分の背中でも見れるようにでもなりゃあ話は別だが。それというのも、真我はモノを見る主であるとはいえ、モノを見るための道具である私の眼を通してしかモノを見ることはできないからである。
これは例えば、夢の世界で我々が体験することとどこか似ている。そなた、いやあなたはご存知であろう。夢の世界は、寝ながら夢を見ている自分の脳内映像であるとはいえ、そこで展開する景色は、夢の世界に居る自分の眼がキャッチできる範囲のものに限られていることを。大きな視点からすれば、夢の世界の景色を見ている真の主は寝ながら夢を見ている自分の方であるはずなのだが、その自分が実際に見ることができるのは、夢の世界に居る自分の方の眼がキャッチした景色だけなのである。ケシキカランのう! なんちゃって。
ちょうどそれと同じように、この世界において真我が実際に見ることができるのは、私の眼に映る景色に限られているってわけである。
話は変わるがここで一つ、世界の見方がガラリと変わる方法をご紹介したい。
一言で申せばそれは、「眼に映る身体を景色の一部として見る」ことなのだ。
眼に映る身体に対してそういう見方をするとどのような変化がもたらされるかと申せば、うまく行った場合の話だが、景色を見る視点の位置が、景色と地続きではなくなる、すなわち景色と地続きな場所から地続きじゃない場所へと移行する。景色を見る視点の位置が、それまでは景色と地平線を同じくしていたのに、それ以降は景色と地平線を異にするようになるのだ。
そもそも人は基本的に、前述の実践すなわち「眼に映る身体を景色の一部として見る」ことを意識的に為さない限り、自然な成り行きとして、身体のある場所を景色を見る上での基点としているものだ。それはとどのつまりは、景色を見る視点の位置を景色と地続きな場所に置くことに他ならない。
景色を見る視点の位置がそこにある時人は、身体のある場所もしくは身体に近い場所をコチラと呼び、そこから離れた場所をアチラと呼んで、コチラとアチラの区別を作り出す。我々にアチラとコチラの区別が生まれるのは実に、身体のある場所を基点として景色を見ることが発端となっている。そしてこの区別の延長に「アチラに在るモノをコチラに居る自分が見ている」という解釈があり、「自分とは世界という囲いの中の存在である」という自己限定もある。そんな中では、眼に映る景色が、自分のグルリを取り囲む囲いに見えるのも無理はないと言える。
その状態から出る効果的な方法の一つは、ご紹介させていただいた「眼に映る身体を景色の一部として見る」ことである。これを意識的に行うことにより、その状態が生まれる発端すなわち「身体を基点として景色を見る」ことを封じることができる。そしてその結果として、景色を見る視点の位置が、景色と地続きじゃない場所に移行するという寸法だ。その時あなたは理解されるに違いない。それまであったアチラとコチラの区別は元を正せば、自分の心の中にしか無かったのだ、と。
さて、この「眼に映る身体を景色の一部として見る」という方法は、既にご承知のように、真我と同じ視点で眼に映る身体を見ることに他ならない。真我には正に、この私の眼に映る身体は景色の一部として見えているのだから。「真似すんな!」とでも言いたげな真我ぜよ。これは例えばの話、映画の登場人物が、映画の見物人と同じ視点で自分の身体を見るようなものだとも言える。現実にはあり得ない話だけれども。
それからさらに、私の身体に伴う身体感覚もまた、真我には景色の一部として見えている(認識されている)、ということも付け加えておかねばならない。真我にとっては、私の身体もそれに伴う身体感覚も共に景色の一部なのだ。真我からすると、物的なものであれ心的なものであれ、景色のお仲間であることに変わりはないわけである。
ということで、「眼に映る身体を景色の一部として見る」という方法のより完成された形は「眼に映る身体と、身体感覚のどちらをも景色の一部として見る」という方法だと言える。従って、ここに来て最終的な結論を申させていただくならば、私の本当のお勧めは実はこちらなのである。この方法でひとつ、世界の見方をガラリと変えてみられては如何でしょうか。
(41)に続く
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