心と真我


(41)悟りとは視点移動でもある

夢の一種に、「明晰夢」と称されるものがあるのをご存知だろうか?
ご存知ない方のために簡単に説明させていただくならば、「自分は今、夢を見ている」という自覚を持ちながら見る夢のことである。そういう夢の状態には、夢がスタートした時からなる人も居れば、夢の途中からなる人も居る。
私の記憶に残っている数少ない「明晰夢」体験はいずれも、夢の途中から始まったものばかりである。私のような「明晰夢」の体験者は少数派のようだが、明け方とかに、徐々に覚めつつある夢の中で、「半明晰夢」とでも称すべき、「明晰夢」に近い体験をなさる人の数となると少なくないものと思われる。
「半明晰夢」とは私の造語なので一応解説しておくが、覚めかかっている夢の途中で、「ああ、これは夢だな」と気がついてそのまま、夢が覚め切るまでの間、夢を見続けている状態のことである。
さて一般に悟りは、「夢からの目覚め」に喩えられることが多く、私もその喩えを使うことがあるが、ニュアンスにこだわるならば悟りは、「夢からの目覚め」というよりもむしろ「通常の夢から明晰夢への移行」にこそ喩えられるべきものであると思う。それもあってここでは、「通常の夢から明晰夢への移行」と「未悟の状態から悟りの状態への移行」の類似点を見てみたい。
前者と後者に共通する変化は、景色を見る視点(景色を見る上での基点)の移動である。
具体的に申せば、前者においては、夢の中に居る自分から寝ながら夢を見ている自分へと景色を見る視点が移動するし、後者においては、個体としての自分から真我へと景色を見る視点が移動する。もちろんご承知のように、前者における景色とは夢の世界の景色を指し、後者における景色とは現実世界の景色を指しているという違いはあるのだけれども。
悟りというものを、この一点からのみ眺めるならばそれは、景色を見る視点が、個体としての私から真我へ移動することだとも定義できる。ということは、景色が変化したり、景色の中に何かが、例えば大いなる存在とか、輝く何かとかが現れることが悟りってもんじゃあないわけである。そうではなくて、それらも含む景色を見る視点の移動こそが悟りなのだ。そこで問われるのは、「何が見えているのか?」ではなく「何が見ているのか?」だ。
「明晰夢」及び私の言う「半明晰夢」を体験されたことのある向きは、ご自分のその体験から、悟りにおける視点移動がどういうものなのかを、ある程度までは類推することができるに違いない。
さて、「明晰夢」も私の言う「半明晰夢」も分からないという方のために付け加えておくならば、悟りにおける視点移動と似たような出来事は、例えば我々が映画を見ている時などにも起こることはある。
我々は時として、映画館などで、スクリーン上の主人公に感情移入し過ぎるあまり、客席に居る自分の存在を忘れてしまうことがあるものだ。しょっちゅうあることではありませんけどね。そんな時の我々は、スクリーン上の主人公の目線で景色を見ているので例えば、主人公の頭上に落ちて来る岩なんかがあったりすると、主人公と一緒に身をかわす仕草をする人が中には居てもおかしくない。が、仮にそんな人が居たとしても、くだんの主人公が危機的な状況から離れ、スクリーン上の世界に平穏さが戻ったりすると、客席に居る自分のことを思い出しハッと我に返ることもある。それはその人にとっては、スクリーン上の景色を見る視点がスクリーン上の主人公が居た場所から客席の自分に戻ったということでもあるわけだが、こういう変化もまた、悟りにおける視点移動と似てなくもない。
(42)に続く
TOP INDEX BACK NEXT