心と真我


(42)悟りとは景色を見る主体の変化でもある

「未悟の状態から悟りの状態への移行」は「通常の夢から明晰夢への移行」と似たところがある、という話を前回させていただいた。
両者の共通点は既述のように景色を見る視点の移動だが、この景色を見る視点の移動というものを別の角度から捉えるとそれは、景色を見る主体の変化とも言える。すなわち「未悟の状態から悟りの状態への移行」に伴う景色を見る視点の移動も、「通常の夢から明晰夢への移行」に伴う景色を見る視点の移動も、共に景色を見る主体の変化として捉えることも可能なのだ。
その理解のためにここで、前述の二つのケースにおける視点移動の具体的な中身をおさらいしておくならば、一つ目のケースにおけるそれは、個体としての私から真我へと景色を見る視点が移動することであり、二つ目のケースにおけるそれは、夢の中に居る自分から夢を(外側から)見ている自分へと景色を見る視点が移動することである。これら二つのケースにおける視点移動の特徴的な点は、景色を見る視点の移動に伴って、景色を見る主体の変化もまた生じている点にある。
すなわち一つ目のケースにおいては、景色を見る主体が個体としての私から真我へと入れ替わっており、二つ目のケースにおいては、景色を見る主体が夢の中の自分から夢の外の自分へと入れ替わっている。どちらのケースにおいても、同一者の中で景色を見る視点が移動しているのではなくして、景色を見る視点の移動はそのまま景色を見る主体の変化をも意味しているのだ。
「未悟の状態から悟りの状態への移行」と「通常の夢から明晰夢への移行」の双方における視点移動を、景色を見る主体の変化として捉えることもできるのは、そういうわけだからである。
これでお分かりいただけたのではないだろうか。悟りとは、個体としての私が成長拡大して、それまでには無かった新しい視点で景色を見れるようになるというものでもないってことを。悟りとは、個体としての私が変化して、景色を見る新しい視点を獲得することなどでは断じてないのだ。
景色を見る新しい視点の出現と同時に、それまでは居たはずの個体としての私はどこかに消え、個体としての私からすると赤の他人以外の何者でもない真我が景色を見る主体の座に着いている、というのが真相である。これって結局、私が赤の他人になるのと変わりがない。
最後に余談だが悟りとはそういうものなので、悟りというものを多くの人に勧めようという気には中々なれないってのが、私の本音である。悟りの何たるかを明らかにするために、こういうのをシコシコ書いてはおりますけどね。
これまでの話からもお分かりのように、人様に悟りを勧めるってことは極論すると、「消えて無くなれ、死んでしまえ!」って言うのと同じことなんですよ。そんな乱暴なことを嬉々としてやる馬鹿がどこにおりますかっての。
(43)に続く
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