心と真我


(43)景色を見ているのは常に真我

夢を見ている最中に、人が心に抱く「自分は今夢を見ている」という自覚、それをここでは「夢見の自覚」と呼ぶことにして話を進めよう。
この夢見の自覚を伴いながら見る夢であれ、そうじゃない夢であれ、共通して言えるのは、夢の中の景色を見ている主は寝床に居る自分(寝ながら夢を見ている自分)であって、夢の中に居る自分では決してない、ということである。夢の中の景色というものは全て、夢の種類に関係なく、寝床に居る自分によって見られているのだ。夢の本質からして、夢の中に居る自分がそれを見ているなんてことは有り得ない。
が、夢見の自覚を伴わない夢の場合、「眼前の景色を見ているのはこの自分だ」と、夢の中に居る自分が思い込むことはある。というより、夢見の自覚を伴わない夢にはそうした思い込みが付いて回るものだ。両者はワンセットになっている。そうした思い込みが錯覚なのは言うまでもないが、銘記しておいてもらいたいのは、夢ならぬこの現実の世界において、個体としての自分が心に抱く同様の思い込みもまた錯覚なんだってことである。
夢ならぬこの現実の世界において、個体としての自分が、「眼前の景色を見ているのはこの自分だ」と思い込むこともまた、錯覚なのだ。何故ならこの現実の世界において、我々が眼にする景色を見る主は常に個体としての自分ではなく、それを超えた真我なのだから。この現実の世界において、我々が眼にする景色は常に真我によって見られている、というのは、真我の発見を意味する悟りに我々が到っておろうとおるまいと、一貫して変わらなぬ真実である。これは先ほどの話、すなわち「夢見の自覚の有る無しに関わらず、夢の中で我々が眼にする景色は常に寝床に居る自分によって見られている」という話と似てもいる。
ついでながら、これらと似た話がもう一つ有ったので付け加えておく。映画見物に絡む話だ。皆さんはご存知であろう。映画を見ている時の我々は時として、スクリーン上の主人公と一体化し、彼(または彼女)と同じ目線でその身に迫る危機などを凝視していることもあれば、それとは全く逆に、トイレに行くタイミングが気になるなどして、客席に居る自分の目線でクールにスクリーンを眺めていることもあるのを。ここで思い至っていただきたいのは、それらいずれのケースにおいても、スクリーン上の景色を見ているのは客席に居る我々なんだってことである。
この話は前出の、「夢見の自覚の有無に関わらず、夢の中で我々が眼にする景色は常に、寝床に居る自分によって見られている」という話とも共通するものがあるしまた、「我々が悟っていると否とに関わらず、我々が眼にする景色は常に、真我によって見られている」という話とも共通するものがある。
さてそうは言うものの、「我々が悟っていると否とに関わらず、我々が眼にする景色は常に真我によって見られている」という話だけはまだ認めがたいという向きも、中にはあるかも知れない。いや、ほとんどの方がそうだったりして。こればっかりはある意味、途方もないような話ですからね。
いずれにしても、そんな方々にお黙りいただく切り札はやはり、あの話しかなさそうである。あの話とは、これまで何度かチョロッと取り上げた「三次元空間の広がりに対する認識」の話だ。これをチョロッとしか取り上げなかったのは、「悟談」のコーナーで既に詳しく述べたからなのだが、最近私は別の考え方をするようになった。ああいう一般通念からかけ離れた話というものは、何度も繰り返さなければ人々の心に定着しそうにないな、という風に考えるようになったのだ。ということで、これからマタマタあの話、すなわち「三次元空間の広がりに対する認識」の話をさせていただきます。「チョロッと」以上「詳しく」未満を、念頭に置きながら。
まず着目していただきたいのは、次の事実である。
「我々は景色を見る時常に、景色が置かれている三次元空間の広がり(縦、横、高さという三方向への広がり)をも同時に見ている」
これが何を意味するか、お分かりだろうか。これによって少なくとも一つ言えるのは、我々にとって、眼を通して景色を見ている主は三次元空間の中に居る個体としての自分じゃないってことである。何故なら、三次元空間の中に居る者が三次元空間の広がりを見れるわけはない(認識できるわけはない)のだから。
三次元空間の中に居る者に三次元空間の広がりは見えない、というのは例えば、映画のスクリーンの中に居る者に、映画のスクリーンの広がりは見えない、というのと、道理としては同じである。現実世界のような三次元の広がりだろうと、映画のスクリーンのような二次元の広がりだろうと、広がりと名の付くものは全て、中からは見えないようになっているってのが一貫した道理なのだ。
中からは見えないってことは裏を返せば、外からしか見えないってことに他ならないがこれは、映画のスクリーンとそれを見る者の位置関係を思い浮かべてみれば誰にでも分かることだ。映画のスクリーンとそれを見る者の位置関係によって示されてもいるように、ある一つの広がりを見ることができるのはそれの外に居る者に限られている。従って前述の事実、すなわち「我々は景色を見る時常に、景色が置かれている三次元空間の広がりをも同時に見ている」という事実は、最終的には次のことを意味していることになる。
我々の眼を通して景色を見ているのは常に、三次元空間の中に居る個体としての自分ではなくして、その外に居る何者かである。
で、その三次元空間の外に居る何者かこそが私の定義では真我に他ならない。だから私に言わせれば、真我の発見を意味する悟りに到ってない人でも、景色を見ている時は常に真我で見ていることになる。そこにおいて、景色が置かれている三次元空間の広がりも同時に見てない人は居ない、というのがその何よりの証拠というもの。
にも関わらずそれが分からないとしたら、「アチラにある景色をコチラに居る自分(個体としての自分)が見ている」という解釈を心がしているからだと言える。「アチラにある景色をコチラに居る自分が見ている」というのは、見るものと見られるものの関係についての、心の解釈に過ぎないのだ。
(44)に続く
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