心を介在させずにモノを見る、ということについて

言葉ってものはやっかいなもので、同じ言葉でも受け取る人によって、意味が違ってることがある。
受け取る人によって意味が違いがちな言葉の一つは「心」である。
ご承知かと思うが心理学などでは、心は顕在意識という浅い層と潜在意識という深い層に二分されている。より細かく見ると、その潜在意識にもまた浅い層と深い層があって、後者を特に深層意識と呼ぶこともあるようだが、ここではそこまで細かく考えないことにする。
心理学の専門家ではないので両者の区別については大ざっぱな説明しかできないが、思考の出所が顕在意識で感性の出所が潜在意識、という風にくくることもできるのではないか。
いずれにしてもこのようなわけで、心理学において心という言葉が使われる場合は、顕在意識と潜在意識の両方を含めたものを指しているのだが、では世間一般においてはどうなのかというと、必ずしもそうとは限らない。世間一般の人が心という言葉を使う場合は顕在意識だけを指していることもあれば、顕在意識と潜在意識の両方を指していることもあるからだ。
さてご存知のように当サイトでは、心を介在させずにモノを見ることと真我(もしくは悟りの境地)でモノを見ることをイコールとしているが、こうした物言いの中で心という言葉が使われる場合、どちらの意味で使われているか、あなたはちゃんと理解しておられるだろうか。
私的には、全体の文脈に照らせば、それぐらいのことは分かるように話をしてきたつもりだが、万が一誤解してらっしゃる向きがあったら困るので、一応解説しておこう。
私が前述のような物言いの中で心という言葉を使う場合は常に、顕在意識と潜在意識の両方つまり心の一番浅い層から一番深い層まで全部ひっくるめたものを指すために使っているのだ。
だから私の言う「心を介在させずにモノを見る」とは「考えることも感じることも二つながら外してモノを見る」という意味になる。決して、「考えることを止めて感じながらモノを見る」という意味なのではない。
もちろんそういう意味に取ること自体は国語的には間違ってはいない。心という言葉は顕在意識だけを指すために使われることもあるのだから。だが悟りの何たるかを説明する文脈の中で、私が前述のような物言いをする場合はそうはならない、というに過ぎない。
誤解しないでいただきたいのだが、私は何もここで「感じながらモノを見る」ことそのものを否定しているのではない。それが価値無きことと申し上げているのではない。それと悟りの境地もしくは真我でモノを見ることとは別物であるとだけ申し上げている。
だから例えばの話、花とか月とかが眼の前にあったとして、花や月の何か(例えば、そこに宿っている命とか気といったもの)を感じながら見る、というようなことができたとしても、そのこと自体は悟りとは関係がない、と言える。そこにどれほどの感動や美があったとしても、それと悟りを結びつけるのは誤解なのだ。
このように悟りの世界は心の全てが外れた世界なので、人の心に訴えてくるような情緒的なものや感じる要素が全く無い。だから、ドライと言えばこれほどドライな世界はない。と同時に、スッキリしていると言えばこれほどスッキリしている世界もない。ドライでスッキリしていてスッカラカンだ。
話を戻すが世間には、前述のような誤解が結構ある。世間に出回っている悟りに関する言説の中に、前述のような誤解を探すのは、そう難しくはない。
では、そんな誤解が生まれる原因はどこにあるのだろうか。
感じながらモノを見ることはモノとの一体感に繋がっている、というのが一番大きいのではないか。
悟りの何たるかを正しく知らない人にとって、眼に映る全てのモノあるいは万物との一体感は悟りを連想させやすいからである。万物との一体感を感じた人は、その境地を悟りと誤認しやすいのだ。
ここで、あらためて本当のことを申し上げよう。
万物との一体感は万物の根っことも言うべき潜在意識から来るが、その潜在意識さえも外してモノを見るのでなければ悟りはやって来ない。
あなたは理解しておられるだろうか。モノとの一体感さえも実はモノと私との間に距離を作り出す原因になっている、ということを。モノと私との間に距離がないからこそ一体感が生まれるのではないか、てなことを考えておられるとしたら、あなたは掘り下げ方が足りない。実際はモノと私の間に距離があればこそ、モノとの一体感は生まれるのである。といってもそこにある距離は、距離は距離でも発見するのが難しいほど極めて微かな距離なので、私の話にピンと来ない人がいたとしても、おかしくはない。ピンと来なくて当たり前だ、とさえ思う。
ピンと来ない向きは、一体感もまた想念の一種であるということをまず考えていただきたい。そして次に、想念と名のつくものは全て、見るものと見られるものの間に割って入る形でやってくる、という事実に眼を向けていただきたい。
ビルとビルの間に隙間が全然なかったら髪の毛一本も挟めないように、見るものと見られるものとの間に距離が全然なかったら一体感さえも割り込ませることはできないのである。
「見るものと見られるものが一体化する」という物言いは覚者の説法に時々登場するが、その意味を覚者ならぬ人たちが、自分にとって理解可能なもの、もしくは想像可能なものにすり替えた結果、ああいう誤解が生まれたに違いない。この種の誤解って、結構あるんですよ。たくさん売れちゃったりなんかした本の中にもね。ここで、その全てをあげつらうつもりはありませんけど。
話は変わるが、こんなことを思ってらっしゃる向きがあるかも知れませんね。
心を介在させずにモノを見ている状態が悟りの状態なのだとしたら、悟りの中にある人は感情を持つことはないのだろうか?
その問いに対する答えはノーである。彼らだって感情を持ったり掻き立てたりすることはある。ただその場合でも、彼らは心を介在させずに感情を見るわけである。そこにおいては、見ることにおいてのみ心が排除されていることになる。これについては、また別の機会に。
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