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心と真我


(44)悟りとはこれだけど

この世界の景色をあたかも映画でも見るかのように、この世界の外から見ている意識、それが真我だ。が、ここに言う「景色」とは一つの象徴的な表現でもあってその中には、私(個体としての私)の眼に映る景色のみならず、それ以外の感覚器官が捉えたこの世界の情報も含まれていれば、心の働きである思考やイメージや感覚といったものもまた含まれている。
が、ここでは話を分かりやすくするために、それらの中から「私の眼に映る景色」に話の的を絞らせていただく。
さて前述のようなわけで、「私の眼に映る景色」を見る主は真我という名の見る意識なのだが、その見る意識とやらは私(個体としての私)の側から眺めると、私ではないどこかからやって来て、私の頭越しに「私の眼に映る景色」を見ているように観察される。
この観察の中には当然ながら、「眼前の景色を見ているのは私ではない」という理解も含まれている。だからこの観察の最中にある時の私は、「眼前の景色を見ているのは私である」かのように誤解していた時よりも、悟りに近いと言える。が、裏を返せばそれは、まだ悟りではないってことでもある。それは悟りに近くはあるが、悟りそのものではないのだ。では、悟りとは何か?
悟りとは、真我すなわち見る意識が見る意識自身を見ることだ。といっても、見る意識が見る意識自身を視野に入れるとか、客体や対象として眺めるといった意味ではないのだけれども。ではどんな意味なんだ、と突っ込まれても、こればっかりは返答に困る。その真意は体験に待つしかないものだから。
いずれにしても、前述のように真我という名の見る意識を、私の側から観察している状態が悟りじゃないことだけは間違いない。
そしてその、見る意識が見る意識自身を見るという悟りにおいては、心や体による理解は含まれていないので、実感されたり体感されたりするものが何も無く、「これだ!」という手ごたえなんてものもまた無い。心や体で把握できるようなものが何も無いのだ。心や体を超えた真我自身において、その悟りって奴は起こるわけだから。そういうものが伴うのは、前述のような悟りに近い状態においてだけだと思ってよい。
前述のような悟りに近い状態すなわち、真我という見る意識を私の側から観察している状態と、悟りそのものすなわち、ソレがソレ自身を見ている状態とは、厳然と区別されなければならない。
とはいえ、その一方で私はこうも思う。
前述のような悟りに近い状態の方が、悟りそのものよりは多くの人に向いている、と。悟りそのものの中では、私(個体としての私)は丸ごと失われてしまう。見る意識が見る意識自身を見るというその体験の中では、私が生き残るスベなど無いのだ。それに対して、前述のような悟りに近い状態においてはまだ、私の存在は保たれている。それでいてそこには、「眼前の景色を見ているのは私ではない」という、以前には無かった新しい理解も含まれている。そして、それに伴う解放感もある。だからそれは、自分が保たれた中での変化としては、最も素晴らしいものの一つとも言える。正味な話、悟りについてアレコレ能書きをこいているこの私とて、悟りそのものよりはこちらの方にシフトしちゃってることが多い。少なくとも悟りの何たるかを語る時は、悟りを観察できる位置に自分を置いていなければならないので、自覚しなくてもそうなっているものだ。その状態を悟りそのものと取り違えさえしなければ、それはそれで良いところがある、というのが私の感想である。
ということで、悟りに憧れておられる皆様方よ、まずはその悟りに近い状態を目標にされてみては如何だろうか。まずそこまで行ってみて、その後で、さらに歩を進めて悟りの中に「身投げ」するかどうかは考えるっていうのでもいいんじゃないですかね。
(45)に続く
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