心と真我


(45)悟りが起こりにくい一要因

真我の見る働きに着目する限りでは、真我をなぞらえるに一番ふさわしいと思われるのは首から下の無い「目玉おやじ」、早い話が目玉だけでできている生物である。もちろんそんなケッタイなもんどこにもおりませんけど、おるものと仮定して、ここではそいつのことを目玉チャンと呼ばせていただく。
真我がその目玉チャンだとしたら、真我に見られている我々の内的外的な体験は何とすべきだろうか。さしずめ、目玉チャンに見られている映画といったところだろう。ちなみにここにいう「我々の内的外的な体験」とは我々の、眼に映る色や形をはじめとする五感情報、及び思考やイメージや感覚といった心の働きのことを指す。ついでながら、これまでまだチョロッとしか触れてないが、瞑想中の体験とか神秘体験といったものも実はその中に含まれている。
このような我々の内的外的な体験とそれを見ている真我の関係は確かに、映画とそれを見ている目玉チャンの関係に似ている。これら二つの関係を見比べてみると、真我と目玉チャンは共に「見るもの」の側に分類できるし、我々の内的外的な体験と映画は共に「見られるもの」の側に分類できるから。
さてここで、以上のことを踏まえながらイメージしていただきたいのは、「生まれた時から映画の前に居る目玉チャン」の姿である。生まれた時から、という副詞をわざわざ頭に付けたのには訳がある。真我の何たるかを考えた場合その方が、真我をなぞらえるにはより適していると思われるからである。またその方が、イメージを通して皆さんに、真我が真我自身を発見することの難しさを汲み取ってもらいやすいってのもある。
「生まれた時から映画の前に居る目玉チャン」の姿を皆さんにイメージしていただく狙いは実は、それを通して皆さんに、真我が真我自身を発見することの難しさを汲み取ってもらうことにあるのだ。
真我が真我自身を発見することの難しさ、それは取りも直さず我々に悟りが起こることの難しさでもあるわけだが、その難しさは、かの目玉チャンが自分自身の存在に気づくことの難しさと同種のものだと言える。より具体的に申せば、双方の難しさの原因には共通するものがある。
従って、かの目玉チャンが自分自身の存在に気付きにくい原因が見えれば、真我が真我自身を発見しにくい原因もまた自ずから見えてくるに違いない。
ではここで、「生まれた時から映画の前に居る目玉チャン」が自分自身の存在に気付きにくい原因を申し上げよう。それには二つある。
まず一つ目は、目玉チャンの視野にあるのはスクリーン上の映像だけである、ということ。
二つ目は、そのスクリーン上の映像に目玉チャンの姿は含まれていない、ということ。
(46)に続く
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