心と真我


(46)目撃者に目撃者自身は見えない

前回の「生まれた時から映画の前に居る目玉チャン」の話を、もう少し続けよう。
かの目玉チャンには、よく知ってることと全く知らないことの二つがある。
よく知ってることとは、自分が見ているもの、すなわちスクリーン上の映像のこと。
全く知らないこととは、それを見ている自分の存在。
かの目玉チャンは、スクリーン上にどんな映像が映っているのかはよく知っているくせに、それを見ている自分の存在には全く気付いてないのだ。
これによく似ているのが、我々の内なる目撃者すなわち真我だと言える。真我もまた、自分が見ているもののことはよく知っているくせに、それを見ている自分の存在には全く気付いてないのだから。といっても、ここに言う真我とは未悟の方々にとっての真我、すなわち真我が真我自身を発見するという体験お持ちでない方々にとっての真我のことなのだけれども(気を悪くされたら申し訳ない)。
そんな方々のために、ここで一発ポエムをぶちかまさせていただこう。
あなたの眼に赤いバラが映っている時、その赤いバラを「目撃」している主があなたの真我だ。
あなたの耳にゴーンという音が響いている時、そのゴーンという音を「目撃」している主があなたの真我だ。
あなたの心が「ニャロメ!」と思っている時、その「ニャロメ!」を目撃している主があなたの真我だ。
あなたの心が風に心地よさを感じている時、その心地よさを「目撃」している主があなたの真我だ。
あなたの心が夕焼けをイメージしている時、その夕焼けのイメージを「目撃」している主があなたの真我だ。
真我とは、あなたの内的外的な体験の全ての目撃者に他ならない。が、そんな真我も真我が真我自身を発見するという悟りが起こるまでは、自分が見ているもののことはよく知っているくせに、それらを見ている自分の存在には全く気付いてないという、かの目玉チャンと同じ境涯にある。
(47)に続く
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