心と真我


(47)頭がクラクラしそうな話

我々が見たり聞いたりしていることは実は真我によって目撃されているんだってことを分かりやすく話そうとすると私の場合、話がどうしても夢に絡んだものになりがちである。夢を引き合いに出すと、そういう話がしやすいから。
今回もそういう話をしようと思うのだが以上のようなわけで、話をはじめるに当たってまず思い浮かべていただきたいのは、夢の中に居る一人の人物である。この人物を仮にAさんといたします。
このAさんが、夢の中である導師と出会い、次のようなことを言われたと思ってください。
「あなたは今、夢の中に居る。本当のあなたはここに居るあなたではなく、寝床で夢を見ているもう一人のあなただ。」
それを受けて、Aさんはこう反応しました。
「そのもう一人の私とやらには、どこに行けば会えますか?」
「どこにも行く必要はない。何故ならそのもう一人のあなたは、今の今ここに居るあなたの眼を通して景色を見、今の今ここに居るあなたの耳を通して音を聞いている主のことなのだから。」
さあ、この導師の話を皆さんはどう受け止められるだろうか。
夢を見ている主はあくまでも寝床に居るAさんであって夢の中に居るAさんではないってことに思い至れば、導師の話を否定できないと思うのだが……。夢の中のAさんではなく、寝床に居るAさんこそが夢を見ている主であることを考えると、導師の指摘は的を射ていると言わざるを得ない。
導師の指摘通り、夢の中のAさんの眼や耳を使って見たり聞いたりしている主は本当は寝床で夢を見ているAさんである。眼や耳の持ち主は夢の中のAさんでも、それを通して見たり聞いたりしている主は寝床で夢を見ているAさんなのだ。この事実を夢の中のAさんが知ったら、「眼と耳の使用料を払え!」てなことを寝床に居るAさんに言うかも知れないけれども。
さて大きな角度から眺めると、この現実世界もまた一つの夢だと言える。
この現実世界を夢として捉えると、今の話に出てきた夢の中のAさんに相当するのは心と体から成る個体としての我々であり、寝床で夢を見ているAさんに相当するのは我々の内なる目撃者すなわち真我である。そこを踏まえておくと、我々の眼や耳を通して見たり聞いたりしている主が真我であるということを飲み込みやすくなるに違いない。
夢の中のAさんの眼や耳を通して見たり聞いたりしている主は実は寝床に居るAさんであるのと同じように、我々の眼や耳を通して見たり聞いたりしている主は実は我々の内なる目撃者・真我なのだ。
さて以上のようなわけで、我々が眼にし耳にすることは常に真我によって目撃されていると言えるのだが、これには申し添えておかねばならないことがある。
例え話には例えることのできる事柄に限界というものがあって、前述の夢の話に含めることができなかったのだが本当は真我には、我々の心の働きである思考やイメージや感覚などを目撃する働きもまたあるのだ。すなわち真我は、我々が見たり聞いたりしていることを目撃しているように、我々が考えたり、イメージしたり、感じたりすることもまた目撃しているという次第。
このように真我とは我々の内的外的な体験の全ての目撃者のことでもあるのだが、それを視覚的なイメージで表現するために私は、ご存知のように映画の話を持ち出すこともある。目撃者としての真我には、夢の話だけでは伝え切れない側面あるいはニュアンスがあるのだが、映画の話を通してならそこの部分をお伝えできるってのが、その理由である。もちろん逆もまた真なりで、逆から見るとこれは、映画の話によっては伝え切れないことを夢の話でお伝えしているということでもあるのだけれども。目撃者としての真我というものを、私がする映画の話と夢の話の双方から、総合的に理解していただければと思う。
ちなみにその目撃者としての真我というものに関して、映画の話を通してしかお伝えできない側面の最たるものと言えばやはり、次のことである。
真我はこの三次元空間の外から我々の内的外的な体験の全てを目撃している。
我々が見たり聞いたり、考えたり、イメージしたり、感じたりしていることは全て、三次元空間の外に視点を持つ真我によって目撃されているのだ。
それにしても皆さん、今あなたの眼前にある景色を見ているのは実は、三次元空間の外に居るあなたの内なる目撃者・真我なんだという話、頭がクラクラしませんか。頭がクラクラされた方でも、我々の眼に映る体の一部もその体に伴う身体感覚も真我の目撃対象に入っていると考えることで、この話を少しは飲み込みやすくなるかも知れない。
(48)に続く    
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