心と真我


(49)巨大なる目玉

自分の眼に今何が映り、自分の耳に今何が聞こえているのかを我々が知り得るのは、真我というそれらの目撃者(認識者)が我々の中に在るからなんだってことをこれまで私は繰り返し申し上げてきた。が、おそらく皆さん方のほとんどは未だに、それに対しては半信半疑なのではないだろうか。
自分が眼にし耳にすることを我々が知り得るのはただ単に、そういう機能を我々の体が備えているからに過ぎないのではないか、というのが皆さん方の大半を占める意見であろうと思われる。
そんな皆さん方には、次のような私の見解もまたピンと来にくいところがあるに違いない。冒頭の見解と繋がりのあるものだから。
自分の心に今、どんな思考、どんなイメージ、どんな感覚・感情があるのかを我々が知り得るのも、真我というそれらの目撃者(認識者)が我々の中に在るからに他ならない。
これといい、冒頭の見解といい、どちらも真我の発見を意味する悟りに到ってはじめてうなづくことのできる類のものなので、中にはキョトンとしてらっしゃる向きさえあるかも知れない。察するに、皆さん方の多くはこんな風に思っておられるのではないだろうか。自分の心にある思考やイメージや感覚・感情などを我々が知り得るのは、心それ自体にそれらを知る機能が備わっているからなのだろう、と。
そもそも人は、真我の発見を意味する悟りに到らぬ限り、見たり聞いたりすることや心の働きには認識者が居るという発想さえも持てないものらしい。それらの認識者という概念自体が彼らには浮かばないようだ。余談だがある時期まで、私はそのことに全く気付けなかったものだ……おっと、「上から目線」の物言いに感じられたら申し訳ない。
いずれにしても前述の二つの見解を裏付けるために私が持ち出せる話と言えば、次のようなものしかない。次のようなものしか思いつかない。以前にもしたことのある話ではあるのだけれども。
見たり聞いたり、考えたり、イメージしたり、感じたりしていることなどの間に我々が分裂感を持たずにいられるのは、すなわち、それらがあちこちでバラバラに起こっているような感が我々にしないのは、ひとえにそれら全てが真我という共通の認識者によって認識されていることによる。
我々の心身に起こる体験は多種多様でも、それらを認識している主は真我という一者なので、それらの間に分裂感やバラバラ感を我々は感じないで済むという次第だ。
前述のように、見るもの聞くものに代表される五感情報及び、思考やイメージや感覚・感情といった心の働きなど、我々の内的外的な体験の全ては真我によって認識されている、というのが私の見解だがここで少し逸脱して、その真我の大きさについて考えてみたい。
真我の大きさを考える上で目安になるのは、真我が認識しているものの中で一番大きいものは何かってことである。
では真我が認識しているものの中で一番大きいものは何かと言えば、これはもうどう考えたって空間しかない。真我が認識しているものの中で空間よりも大きいものは無いのは例えば、映画鑑賞中の我々にとって、見ているものの中でスクリーンよりも大きいものは無いのと同じである。ちなみに、真我がその空間を認識するのは我々の視覚を通してであることは言うまでもない。
以上を踏まえると真我の大きさは、どう少なめに見積もっても、空間以下ってことにはならない。空間よりも小さいものが空間を認識できる道理はないのだから。
ところで昔の禅僧の中には、悟りの境地をこんな言い回しで表現した御仁もあるらしい。
「全宇宙が私の目玉になった!」
悟りとは真我との一致のことでもあるのでこれは、真我は宇宙大の目玉のような存在であることを示唆する言い回しとも取れる。ご存知のように私もまた、真我の見る働きを強調するために真我を目玉になぞらえることがあるが、ここではその真我という名の目玉の大きさは宇宙大であることが暗に示されている。
先ほど私は真我の大きさを空間以上と申し上げたが、真我の大きさを空間以上と表現しようと宇宙大と表現しようと、森羅万象がその中に収まってしまうほどの大きさが真我にはあるってことが示されているという点では、どちらも同じようなものだとも言える。真我の大きさは確かに、森羅万象がその中に収まってしまうほどのものであり、森羅万象は真我の外に出るものではないのだ。
ここに言う森羅万象なるものがとどのつまりは、我々の五感や心で捉えられた森羅万象を指しているのはもちろんである。我々にとって森羅万象とは、五感や心で捉えられた森羅万象以外の何物でもないのだから。
だとすると、森羅万象は真我の認識の中に存在している、という言い方も当然可能だ。いや、というよりもむしろ、森羅万象は真我の中に収まる、ということをより具体的に表現したらそういう言い方になるという方が正しいだろう。
森羅万象は真我の認識の中に存在していると言えるのは、先ほども述べたように、我々が五感や心で捉えたものは全て真我に認識されているからに他ならない。
真我という内奥の目玉がそれらを認識するからこそ、それらの存在が我々には分かるんだってことも付け加えておこう。これは裏を返せば、もしも我々の中に真我という認識者が居なかったら森羅万象は存在しないってことでもある。こういう話って、宇宙創造の秘密に迫るようなところがありまんな。
森羅万象は真我の認識の中に存在しているってことを詩的に表現したら、次のようになるだろうか。
「森羅万象は真我という目玉の中の景色である」
(50)に続く
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