心と真我


(50)悟りと似て非なるもの

真我が自分自身を見るという不思議な出来事を悟りと言うが、その悟りにおいては二つのことが同時に起こる。一つは真我の顕在化。もう一つは私(個我の私)の消失。もちろんその後でも、私は復活して戻って来ることは可能だが、その私の復活と同時に、真我は再び元の隠れた状態になってしまう。
この話からもお分かりのように、私と真我とは同時に「姿」を現すことはできない。前者が在る時後者は無く、後者がある時前者は無い。両者は相容れないものだ。その意味において悟りは、一つの入れ替わり現象と見ることもできる。私と真我の入れ替わり、それが悟りだ。
私と真我の一体化が悟りなのではない。それは前述の入れ替わり現象と似てなくもないが、両者は根本的に異なるものだ。私と真我という二つのものが入れ替わるってことと、私と真我が出会って一体化するってこととは明らかに違う。
従って、私が真我と融合して一体感を感じることや、私が真我と出会ったり、真我を体感することなどをもって悟りとする見解は誤りである。
もう一つ別の理由から、それらの見解の誤りを指摘することができる。
まず申し上げたいのは、一体感とか体感とか感得とか実感といった「感の付くもの」の存在を我々が認識できるのは、それらを目撃する眼とも言うべき真我が我々の中にあるからだってことである。この事実だけでも一体感や体感や感得や実感を私にもたらしてくれた相手が真我以外の何者かであることは明白だが、そのような体験が真我の発見を意味する悟りなんかであるわけがない。
仮に悟りに関する百の正しい見解を人様に向かって述べたとしても、一言か二言前述のような誤った見解がそこに加味されると、悟りへの途上にある人の足を引っ張るには十分なものがある。それは例えば、コンピュータを正常に機能させなくするにはコンピュータの中のある一箇所に手を加えるだけでも十分だという話と似ていると言えば似ている。
少し補足しておこう。
悟りの根幹に関わらないような事柄についてなら、あるいはまた覚者の個性として片付けられるような事柄についてなら、誰がどんな自由な発言をしようと私の知ったことではないのだが、前述の見解のような悟りの根幹に関わる部分での誤解に対しては、ハッキリとモノ申しておく必要があると思うのだ。
それから私の価値基準の中に、悟りだから良くて悟りじゃないから良くないという見方は無いので、申し添えておきたい。
(51)に続く
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