心と真我


(51)今の今あなたはソレで見ている

前にも申し上げたことではあるが私は基本的に、この『心と真我』では話をなるべくゆっくり進めたいと思っている。また重要な事柄に関しては、言い方を変えながら繰り返しお伝えした方がよいだろうとも思っている。
今回の話は内容的には既に皆さん方が承知しておられるはずのものではあるが、そういう方針なので、敢えて発表させていただく次第である。
今回の話もまた眼に絡むものである。
当たり前と言えば当たり前のことではあるが、人は誰でも自分の顔に眼が付いていることを知っている。自分の顔に眼が付いていることを知らぬ者は居ない。が、考えるに、いくつかの条件の下に置かれると人は、自分の顔に眼が付いていることに気付かない可能性がありそうだ。
一体どんな条件の下に置かれたら人はそうなるのか、ですって。私が思いついたのは次の四つである。次の四つの条件の下に置かれると人は、自分の顔に眼が付いていることに気付かないかも知れない、と私には思われる。
まず一つ目は、その人の住んでいる世界に鏡および鏡に類するものが存在しないことである。
ここに言う鏡に類するものとは例えば湖面のような、自分の顔を映して眺められるもののことを指す。この条件を真っ先に上げるのは言うまでもなく、自分の顔に眼が付いていることを最もストレートに我々に分からせてくれるのは鏡や鏡に類するものであるからだ。
二つ目は、その人の周囲に人をはじめとする動物が住んでいないことである。
人や動物の顔に眼が付いているのを見て、「アレと同じものが自分の顔にも付いているはずだ」と類推せぬ者は居ないってのが、この条件をはずせない理由である。
三つ目は、その人にマブタが無いことである。
たとえ前述の二つの条件がそろっていてもマブタがあると人は、マブタの開閉によってモノが見えたり見えなかったりする事実から眼の存在に気付くこともあり得る。だから、この条件もはずすわけには行かない。
四つ目は、その人の眼、顔、体が固定されていて動かせないことである。
この条件が付く理由については皆さん、ご自分でお考え下さい。
考えてみれば、いや考えるまでもなく、どれもこれも現実離れした条件ばかりだと言える。中には、漫才のネタに使えそうなものさえある。が、それは横に置いといて、ここで一つ、生まれた時から前述のような条件の下に置かれている人が居るものと想像してみていただきたい。もし仮にそういう人が居たとしたらその人は、自分の眼の存在に気付かない可能性があるとは思われませんか。ひょっとしたら私が見落としていることがあるかも知れないので、絶対そうなるとは断言しないが少なくとも、その可能性があることだけは否定できないであろう。
話の進行上ここでは、その人は前述のような条件のせいで自分の眼の存在に気付いてない、ということにしておく。その上で皆さん方に更に想像していただきたいのは、他ならぬあなた自身がその人だった場合のことである。あなた自身がその人であったら一体どんな感じだろうな、ということを想像してみていただきたい。
もしもあなたがその人であったら……
例えばあなたの眼前にイスや机があれば、あなたはイスや机を見るが、それらを映している眼の存在には気付いていないことになる。また例えばあなたの眼前に空や海があれば、あなたは空や海を見るが、それらを映している眼の存在には気付いていないことになる。そんなあなたには、モノを見る道具としての眼という概念そのものが無くてもおかしくはない。まさか、と思われるかも知れないが、生まれた時から前述のような条件の下に置かれ、なおかつモノが見えている状態が当たり前のこととして続いていたら人は、モノを見る道具としての眼という概念そのものを持てない可能性だってある。
いずれにしてもこういう想像を通して、「見ているもののことは知っているが、見ることを可能にしている眼の存在には気付いていない状態」というものを理屈じゃないところで掴んでもらえると、私としてはここから先の話がしやすい。
さて眼と言えば、顔に付いている眼すなわち物理的な眼の他に、真我という意識の眼もまた我々にはあるんだってことを忘れてはならない。我々はモノを見る時、物理的な眼のみならず真我という意識の眼もまた使っているのである。
我々の中における前者と後者の位置づけに触れておくならば、前者はモノを見るための道具で、後者はモノを見る主体ってことになる。物理的な眼がモノを見る道具という意味での眼なら、真我という意識の眼はモノを見る主体という意味での眼だ。モノを見るには物理的な眼だけあれば十分じゃないのか、てなことをお思いの方のために申し上げておこう。
もしも我々が物理的な眼だけでモノを見ているとしたら少なくとも一つ、説明の付かないことが出てくる。何かと申せば、これまでにも何度か申し上げたことではあるが、我々はモノを見る時、モノが置かれている空間の広がりをも同時に見ることができているという事実である。もしも我々が物理的な眼だけでモノを見ているとしたら、この事実の存在が説明の付かない不条理なものになってしまう。空間の内側にある物理的な眼が空間の広がりを見れる道理は無いのだから。空間の内側にある空間よりも「はるかに」の一万乗ばかり小さい物理的な眼がどうして、空間の広がりを見ることなどできるだろう。
我々がモノを見る時、モノが置かれている空間の広がりをも同時に見ることができるのはひとえに、物理的な眼を通して空間の広がりを見ている空間よりも大きな意識の眼すなわち真我が我々にあるからに他ならない。
にも関わらず我々は(正確には覚者を除く我々というべきか)、その真我という意識の眼の存在に気付いていない。我々は空間の広がりは見えているのに、それを見ている主体であるところの真我という意識の眼の存在には気付いていない。この状態は前述の「見ているもののことは知っているが、見ることを可能にしている眼の存在には気付いていない状態」と同種のものだ。
真我なんて言うと皆さん方の多くは、今ここに居る自分とは遠くかけ離れた存在であるかのように思っておられるかも知れない。が、それは大きな誤解というものである。あなたは今の今明らかに、真我という意識の眼でもって空間の広がりを見ておられるのだから。今の今あなたには空間の広がりが見えているという事実をどう受け止められるだろうか。この事実の意味するものは大きい。これこそは今の今、真我という意識の眼があなたにおいて機能していることの何よりの証拠なのだから。ただあなたは、体験的事実としてそのことをご存知ないだけなのだ。
(52)に続く
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