心と真我


(52)部屋の広がりを認識できる理由

我々には三次元空間の広がりが見えている、という常識的すぎる事実をとことん掘り下げて行くと最終的に我々は、ある常識離れした結論に辿り着く。我々は「非物質的な眼」でもって肉眼に映る景色を見ている、というのがそれである。この結論に辿り着くまでの経緯に触れておこう。
我々には三次元空間の広がりが見えている、という事実からまず最初に我々が割り出すことのできる結論は次のようなものである。
「我々には三次元空間の広がりを対象として見ることのできる何かが備わっている」
これに関しては、普通に考えれば誰にでも分かることなので、異論を挟む方はおられまい。ではその、我々に備わる三次元空間の広がりを対象として見ることのできる何かとは、一体何なのか?
それについて少なくとも一つハッキリ言えるのは、それは物質的なものではない、ということである。物質的なものではないってことは言い換えれば身体上のものではないってことでもあるわけだが、そのように断言できるのは、物質でできているものは何であれ、三次元空間の枠内に収まっているからである。三次元空間の枠内にチョコンと収まっているようなものがどうして、三次元空間の広がりを対象として見ることなどできるだろう。できるわけがない。少しズレた喩えかも知れないがこれは、金魚バチの中に居る金魚に金魚バチが外から見えるわけがない、という話と似てなくもない。
ということは我々は、自分の中にある非物質的な何かでもって三次元空間の広がりを見ていることになる。念のために申し添えておくが、ここに言う非物質的な何かとは心のことなのでもない。我々は非物質的なものというと直ぐに心のことかと思いがちだが、ここではそれは的を外している。心って奴もまた、どんなに頑張っても三次元空間の枠外には出られないものなのだから。三次元空間の枠内で遍在するところまでは行けるかも知れないが、その外にまではでられない。食いしん坊の金魚がジャンジャンえさ喰うて、まるまる太って巨大化しても、金魚バチを割るところまでは行かないってのと同じように……いや、この喩えは大分ズレてるかな。
いずれにしても、この非物質的な何かには見る働きがあることは明白なので、それのことを象徴的に「非物質的な眼」と呼んでもさしつかえはないであろう。我々は自分に備わる「非物質的な眼」でもって三次元空間の広がりを見ているという次第だ。が、ここではそれを踏まえて更に、我々が体験的に知っている次の事実にも着目したい。
「我々にとって三次元空間の広がりを見ることと、その中に存在している景色を見ることとは同時一体的である」
前者と後者が同時一体的である、というのはここでは、前者の中に後者がそのまま含まれ後者の中に前者がそのまま含まれる、という意味である。
前者と後者すなわち、三次元空間の広がりを見ることとその中に存在している景色を見ることの二つが同時一体的であるのは例えばの話、我々が映画館に居る時、スクリーンを見ることとスクリーン上の映像を見ることとが同時一体的であるのと同じようなものだとも言える。そう言えば、三次元空間の広がりとその中に存在する景色の関係って、スクリーンとスクリーン上の映像の関係に似ておりますね。前述の両者が同時一体的であるという事実から我々は、次のような結論に辿り着くことができる。
我々に備わる「非物質的な眼」は三次元空間の広がりと同時に、その中に存在する景色をも見る対象としている。言い換えれば、我々は三次元空間の広がりと併せて肉眼に映る景色をも「非物質的な眼」で見ている、ということである。何と我々は三次元空間の広がりのみならず、具体的な色や形のある、肉眼に映る景色までも「非物質的な眼」で見ているわけである。具体的な色や形のあるものが何ゆえに「非物質的な眼」にとっての見る対象となり得るのか、そのカラクリまでは知る由もない。が、そう考えないことには、前述の両者が同時一体的であることの説明はつかない。思うに、そのカラクリを解こうとすることは「存在」の秘密に迫るようなところがあって、我々人間様の領分を越えているみたいだ。我々人間様にできるのは、せいぜい次のように推し量るところぐらいまでだろう。我々の肉眼に映る景色ってのは本当は、我々が考えているような意味での物質的な実体を持った存在なんじゃなくて、例えば夢の中の景色、あるいはスクリーン上の映像みたいに見せかけだけの存在であるに違いない。
ちなみに既に承知しておられることではあるだろうが、私の見立てでは、ここに言う「非物質的な眼」こそは我々にとっての本当の自分すなわち真我である。
ところで先ほどチラリと示唆しておいたが、我々の肉眼に映る景色とそれを見る「非物質的な眼」すなわち真我の位置関係は、スクリーン上の映像とそれを見る観客の眼の位置関係にも似ている。ちょうど観客の眼がスクリーン上の映像を外から捉えているのと同じように、真我という「非物質的な眼」は我々の肉眼に映る景色を外から捉えているという次第だ。我々の肉眼に映る景色がスクリーン上の映像だとすれば、真我という「非物質的な眼」はそれを見ている観客の眼ってことになる。
肝心なことなので申し添えておくが、ここに言うスクリーン上の映像には常に、我々の身体の一部も含まれていなければならない。何故なら現実問題として、我々の肉眼には常に、自分の身体の一部もまた景色の一角をなすものとして映り込んでいるわけだから。
例えばの話、我々が今部屋の中で両足を前に投げ出して座っているとしたら、我々の肉眼には部屋それ自体の様子と共に、前に投げ出された両足もまた映っているものだ。従ってその状況の中で、肉眼に映る景色をスクリーン上の映像になぞらえた場合、その映像には当然のこととして、部屋それ自体の様子と共に、前に投げ出された両足もまた含まれていなければならない。余談だがこの手の映像って、映画でもたまに使われることがありますね。
肉眼に映る景色をスクリーン上の映像になぞらえる時、そこまで徹底すると実は、より一層飲み込みやすくなることがあるのだ。何かと言うと、真我という「非物質的な眼」あるいは「景色を見る主体」というものは、我々の身体上には存在していない、ということである。
もし仮にソレが、我々の身体上に存在しているとしたら、我々は部屋の中に居ても部屋の広がりを認識できないはずである。我々の身体ってのは部屋の中にあるわけだから。我々が部屋の中に居る時、縦横高さから成る部屋の広がりを認識できるのはソレが身体上のどこかにではなく、また身体の延長のどこかにでもなく、前述の観客の眼に相当する位置すなわち部屋の広がり、もしくは三次元空間の広がりを外から見れる位置にあるからに他ならない。
このようなわけで我々の肉眼に今映っている景色というものは、身体の一部も含めて、人生という名の映画のヒトコマだと言える。我々は今、真我という名の眼でもってそれを見ている最中なのである。
(53)に続く
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