心と真我


(53)「真我は対象化できない」とは

我々の肉眼に映る景色と真我の関係を何か他のモノとモノの関係になぞらえようとする時、是非とも踏まえておかねばならない構図ってものがある。「我々の肉眼に映る景色=見られるもの」「真我=見るもの」、というのがそれである。この構図さえ踏まえておれば、両者の関係をどんなモノとモノの関係になぞらえようとも、根本的なレベルでのズレは生じないものだ。多少変な感じがすることはあったとしても。
前回は両者の関係を、(映画館における)スクリーン上の映像と観客の眼の関係になぞらえたが、今回は趣きをぐっと変えて、望遠鏡の中に広がる景色とそれを覗いている眼の関係になぞらえてみたい。「我々の肉眼に映る景色=見られるもの」「真我=見るもの」という構図を、また違った角度から理解していただくためにである。
さて、我々の視野というか、我々の肉眼に映る景色の範囲というものは強いて申せば、縁(ふち)が円形になっている。だから我々の肉眼に映る景色は捉え方によっては、望遠鏡の中に広がる景色のように見えなくもない。そのことを意識しながら、ここでひとつ周囲の景色を眺めてみていただけないだろうか。……どうですか皆さん、肉眼に映る景色が望遠鏡の中に広がる景色のようには見えませんでしたか。少なくとも、そんな風に思って見るとそんな風に見えないこともない、というところまでは賛同なさるであろう。
いずれにしても我々の肉眼に映る景色が望遠鏡の中に広がる景色だとするならば、真我に当たるのはそれを覗いている(誰かさんの)眼ってことになる。そして我々の肉眼に映る景色と真我の関係は、望遠鏡の中に広がる景色とそれを覗いている眼の関係になぞらえることもできる。
ご存じのように我々は、望遠鏡をいくら覗いても、その円い視野の中に自分自身の眼を見い出すことはできない。当たり前と言えば当たり前の話である。どうして望遠鏡を覗いている眼それ自体を、望遠鏡の中に広がる景色と同じ場所に見い出すことなどできるだろう。できるわけがない。ちょうどそれと同じように我々は、真我という名の眼を、肉眼に映る景色と同じ場所とどのつまりは三次元空間の枠内に見い出すことはできないものなのだ。ピンと来ない向きは、肉眼に映る景色をあたかも望遠鏡の中に広がる景色であるかのように見なし、真我という名の眼でもってそれを覗いているつもりになってみられたら良いだろう。
そう言えば、真我に関する決まり文句の一つに「真我は対象化(客体化)できない」というのがあるが、その意味は「真我は見られる側には無い」ということである。ここに言う「見られる側」なるものが三次元空間の枠内を指していることは、もうお分かりであろう。
(54)に続く
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