心と真我


@真我とは目撃者である

我々にとっての本当の自分、つまり真我とはあらゆるモノの目撃者(認識者)である。
あらゆるモノとは具体的には、身体によって捉えられるモノ、及び心によって捉えられるモノの両方を指す。
ご存知のように、身体によって捉えられるモノを細かく分けると、眼、耳、鼻、舌、触覚のそれぞれによって捉えられるモノということになるが、心によって捉えられるモノの種類もまた一通りではなく、思考によって捉えられるモノ、イメージによって捉えられるモノ、感じ(感覚)によって捉えられるモノなどがある。
これら全てを目撃(認識)しているのが我々の真我なのだ。奴さん、よく眼が回らんものだよ。
ちなみに、これら全てがあちこちバラバラに統一性を欠いたものとしてではなく、自分という一人の人間の中で生じていることが我々に分かるのは実に、真我という同一者によってこれら全てが目撃(認識)されているからに他ならない。
さて、悟りとはこの真我を直接的に知ることなのだが、真我をなんぼ心で捉えようとしても悟りに直結しないのは何故かというと、前述のように、真我そのものは常に心が捉えたモノを見る側に在るからだ。
真我そのものは常に心が捉えたモノを見る側にこそ存在しているので、真我を心で捉えてもそれは、真我そのものを直接的に知ったことにはならない即ち、悟ったことにはならない。
理解の一助としていただくために挙げておきたいのは、眼に映ったものは何であれ眼そのものではあり得ない、という事実である。これは、心が捉えたモノは何であれ真我そのものではあり得ない、という事実とよく似ている。
このようなわけで、思考も、イメージも、感じることも、悟りの役には立たないのだが、この三つの中でも特に感じることを、悟りの役に立たないものとして強調しておきたい。私の見たところ、思考やイメージが悟りの役に立たないことを知っている人は多そうだが、感じることもそうなんだってことまで知っている人は、あまり居なさそうであるから。敵を増やしたくないのであまり言いたくないのだが、悟りの何たるかを人様に語る立場にある人の中にだって……。
思考やイメージに比べて感じることは、心のより深い層で起こることは確かだが、心の中で起こることに変わりはないので、思考やイメージと同じく感じることもまた、悟りの役には立たないわけである。
わざわざ念を押す間でもないことだろうが、この「感じること」と意味の近い言葉、例えば「体感」とか「実感」といったものを通してもやはり、真我を直接的に知ることはできない即ち、悟りに到ることはできない。その他、「一体感」とか「感得」といった、感じる要素を含んでいるものを通してもやはり、悟りに到ることはできない。
たとえ感じたものが、自分を超えた大いなる存在であったとしても、それは悟りではないのだ。
心が捉えた大小様々なモノを見る立場にあるのが我々の真我であり、それを直接的に知ることこそがが悟りなのだから。
従って悟るとどうなるのかというと、何かを感じたり実感したり、何かとの一体感を持つ、といったことはそれまで通りできるのだが、真我という名のそれらの目撃者が、自分の中に新しく付け加えられるわけである。
Aに続く
TOP INDEX BACK NEXT