心と真我


(54)瞑想体験と真我の関係

当サイトの読者の中には、何らかの瞑想に親しんでおられる向きもあるかも知れない。というより当サイトで扱っているテーマを考えると、そういう方の占める割合の方が多そうである。
瞑想と言えば、あなたはご存知だろうか。我々は肉眼に映る景色と同じように、瞑想中の体験もまた真我という名の眼で見ているんだってことを。肉眼に映る景色と瞑想中の体験とでは様相がずいぶん異なるが、どちらも真我という名の眼にとっての目撃対象であるという点では変わりがない。肉眼に映る景色であれ瞑想中の体験であれ、我々は常にそれらを真我という名の眼で見ているのだ。だからこそ我々は、それらを認識できるわけである。肉眼に映る景色であれ瞑想中の体験であれ、ただ「そこに在りさえすれば」我々の認識に上るというものでもないんだってことを、お忘れなく。
というわけで真我という名の眼からすると、瞑想中の体験もまた肉眼に映る景色と同じように、鑑賞中の映画のワンシーンみたいなものだと言える。ちなみに瞑想という言葉は時として、悟りの最中(さなか)にある状態を表すために使われることもあるが、ここに言う瞑想とは多くの人が考えているような意味での瞑想すなわち、心の奥深い層(潜在意識)に入ってゆく内面的な作業のことである。
さて瞑想中の体験の中で、いかにも悟りと関係ありそうに思われやすいものの一つは、「(自分を超えた)大いなる存在との出会い」という奴である。一体どこのどなたの影響なのか、それを悟りと関係あるかのように思ってらっしゃる向きは少なくなさそうだ。
そんな方々には、ぜひ思い至っていただきたいものである。瞑想中であろうとなかろうと、また出会う相手が大きかろうと小さかろうと何者だろうと、あらゆる「出会いの体験」を我々が認識できるのはひとえに、真我という名の眼でそれらを見ているからなんだってことに。これは取りも直さず、真我はあらゆる「出会いの体験」を見る側にこそ存在している、ということに他ならない。
真我はあらゆる「出会いの体験」を見る側にこそ存在しているので、我々はどうころんでも真我とだけは出会うことができない。我々が出会う相手は常に真我以外の何かだ。これは例えば、我々の肉眼に映るのは常に肉眼以外の何かだ、というのと同じぐらい間違いのないことである。また例えば、我々が右手で掴まえられるのは常に右手以外の何かだ、というのと同じぐらい間違いのないことである。
だとすると、いかなる「出会いの体験」も悟りすなわち真我の発見とイコールにはなり得ない。もっと言うとその延長にある、出会った相手を体感することや、それと繋がったり一体化することなどもまた同様である。
それにしても最近、前述のような体験を悟りとする見解が、我が国で流行してるっぽく感じるのは私だけだろうか。もしそうだとしたら、流行の発端を作ったのはきっと、世界的に本が売れた某国の某氏であるに違いない、と私は睨んでいる。だって、どこかの誰かが「悟りとはこういうものだ!」と本などで断定的に述べると、以後それと同じようなことを言う人たちが現れる傾向ってあるじゃありませんか。少なくとも我が国においては。いや、たまたま偶然に同じようなことを言う人たちが現れた可能性もあると言えばあるので、それを受け売りと決め付けてはならないが少なくとも、前述の見解が誤っていることだけは確かである。
話を戻すが、人によっては瞑想中、超常的なビジョンや光などをご覧になることがあるかも知れない。あるいはまた、天地一杯に広がったり、何者かに抱かれたり、万物との一体感を得たり、過去や未来が分かったりすることがあるかも知れない。が、体験の種類に関わらず体験というものは全て、真我によって見られる側にあるので、たとえそれがどんなに素晴らしいものであったとしても、真我の発見を意味する悟りであるかのように取ってはならない。風変わりな映画を見たというぐらいに思っていれば良いだろう。
(55)に続く
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