心と真我


(55)真我が居る場所、居ない場所

人生は映画に喩えられることがあるがもしかしたら、今の若い人の中には映画というよりもテレビゲームという方がピンと来る向きがあるかも知れない。テレビゲームに詳しくない私がテレビゲームの話をするのもコッ恥ずかしいが、テレビゲームに「真我(本当の自分)探し」をテーマにしたものってないのだろうか。と言っても、そういうものが有るわけないのは分かっているし、また仮に有ったとしても面白くなさそうだってことも分かっているのだが、そういうものの存在を私が妄想するのはひとえに、もしそういうものが有ったら、逆説的な意味においてだが、真我の在処を皆さんに象徴的に説明する材料になり得るからである。
ここでは、「真我探し」をテーマにしたテレビゲームが有るものと仮定して話を進めたい。その具体的な中身に関しては話の進行上、あまり細かく考える必要はない。それに関してはただ、「一人の求道者が真我を発見するために色々なことにトライするゲーム」という程度の認識をしておいてもらえれば十分である。その求道者のことを、ここでは仮にAということにしておく。
テレビゲームの性質を考えると、Aが探している真我、あるいはAによって発見されることになっている真我はビジュアルに表現されなければならないが(そうしないとテレビゲームにならない)、ここでは真我は光の塊として表現されるものとする。真我を光の塊として表現するのもどうかとは思いますがね。
テレビゲームと言えば、やってるうちについ熱中し過ぎて、テレビゲームの中のキャラクターに成りきってしまう人も少なくなかろうと思われるが、ここでは他ならぬあなた御自身がくだんのAの側に自分を置き、次のことを考えてみていただきたい。
もし仮に今、自分がAであったとしたら、本当の意味でその自分(Aである自分)の真我に相当するものは何なのか?
「その自分(Aである自分)の真我に相当するものは何なのか?」の前に「本当の意味で」という一言をわざわざ付け加えた理由がお分かりだろうか。テレビゲームという枠の中だけに着目する限りでは光の塊が自分(Aである自分)の真我に相当するのは言うまでもないが(元々そのように設定されているわけだから)、テレビゲームという枠に囚われず、より大きな角度から眺めてみれば、光の塊よりももっと真我に相当していると言えるものがありますよ、という含みがそこには込められているのだ。早い話が、それは一体何でしょう? というのが前述の問いに他ならない。
が、わざわざこのような解説を付けるまでもなく、『心と真我』をここまで続けて読んでこられた方々には、前述の問いに対する答えは既に分かっておられることだろう。その答えはお察しの通り、「テレビゲームを上から見ている自分の眼」である。
もしも我々がAだとしたら、本当の意味で我々の真我に相当していると言えるのは、テレビゲームの中に現れる光の塊ではなくして、テレビゲームそれ自体を上から見ている「もうひとり」の我々の眼なのだ。これは裏を返せば、そのテレビゲームの中に現れる光の塊は、偽りの真我の象徴ではあり得ても本当の真我の象徴ではあり得ない、ということでもある。だからもし仮に、前述のようなテレビゲームが有ったとしたら、「これを作った奴は、真我の本当の在処を知らない」と突っ込まれても仕方がないだろう。
(56)に続く
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