心と真我


(56)瞑想体験もまた夢である

夢は日常生活の写しみたいなところがあって、人は日常生活の中でよくやることを夢の中でもよくやるものらしい。例えば私の場合だと、後で身内に言われて分かったことなのだが、大昔サラリーマン止めてウェイターやってた頃、寝言で「いらっしゃいませ!」と言ったことがあるものだ。そんな具合だから、例えば瞑想することが日課になってるような方は、たとえ覚えていなくても、たまには夢の中でも瞑想をしてらっしゃる可能性がある。そして瞑想によってもたらされる体験が素晴らしかったりなんかすると、「まるで夢を見ているようだ!」てなことを思っておられるかも知れない。
いずれにしても、夢の中での瞑想体験なんてものが万が一にもあるとしたら、それに関して一つハッキリ言えるのは、たとえそれがどんなに素晴らしいものであったとしても所詮は夢というかりそめの世界での出来事に過ぎないってことである。
さて夢と言えば、前述のような就寝時に見る夢ばかりが夢なのではない。我々が今起きて活動しているこの現実界もまた、それとは別の意味における夢である。両者の違いに触れておくならば、就寝時に見る夢が自分一人で見る「私的な夢」であるのに対して、この現実界はあらゆる人々と共有しながら見る「公的な夢」だと言える。そういう違いはあるものの、前者も後者も夢のお仲間という点では一緒である。そして当然のことながら、就寝時に見る夢の中での瞑想体験が夢というかりそめの世界を出るものではないのと同じように、この現実界での瞑想体験もまた夢というかりそめの世界を出るものではない。
従って我々は、この現実界で瞑想して例えば、天地一杯に広がったり、万物との一体感を得たり、大いなる存在あるいはオイナリサンと繋がったりなんかしても、この現実界という夢から覚めたことにはならない、すなわち悟ったことにはならないわけである。
前述のような体験は人によっては、この現実界という夢からの覚醒すなわち悟りであるかのように映るかも知れない。が、残念ながらそれは違うのだ。我々が五感を通して、見たり聞いたり嗅いだり味わったり触りごこちを感じたりすることと同じように、その手の体験もまた現実界という夢の中での出来事に過ぎないのだから。もしもその手の体験が、悟りすなわち現実界という夢からの覚醒であるかのごとく見えた時は、「そんな風に見える夢なのだ」と思い直していただきたい。
前述のような体験には真我という目撃者が居るのだが、その真我という目撃者が一転して自分自身を目撃するという不思議な出来事が起こることがある。それは例えば我々が、就寝時に見る夢の中で、夢を見ている主すなわち寝床に居る自分の存在に気付くことにも似ている。悟りとはそれのことだ。
(57)に続く
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