心と真我


(57)悟りは体験ではない

正確に申せば、悟りは体験ではない。
ご承知のように体験は大別すると、「外的な領域(五感にかかる領域)での体験」と「内的な領域(五感にかからない領域)での体験」と二通りあるが、悟りはそのいずれにも属さないのだ。が、悟りに関する説法の中で、説明の便宜上、もしくは話の進行上、悟りが体験であるかのように語られることはある。例えば、「悟りの何たるかは体験しなければ分からない」とか「体験的事実としての悟り」といった具合に。
本当は体験ではないはずの悟りがこのように、体験という言葉に絡めて語られる場合があるのはひとえに、悟りの何たるかを人様に伝えようとする時、体験という言葉に取って代わり得るより適切な言葉が見当たらないこともあるからだ。つまりそこでは、体験という言葉以上にピッタリの言葉が思い浮かばないので仕方なく、(消去法で)体験という言葉が使われているに過ぎない。そう言えば、今は亡きインドの覚者・オショーの最初の邦訳本である『存在の詩』の出だしは「究極の体験は体験ではない」といったものでしたね。ここに言う究極の体験なるものが悟りを指しているのはもちろんである。
この悟りは体験ではないという事実は、悟りへの途上にある方々にとって最も重要なことのはずだが私の見たところ、彼らのほぼ百パーセントはそれをご存知なさそうである。前述のように体験には、五感にかかる「外的な領域での体験」と五感にかからない「内的な領域での体験」の二種類があるが、彼らのほぼ全員は悟りというものを、後者に属する何かであると思い込んでいるように見える。だが、本当は悟りは、「外的な領域での体験」に属さないのはもちろん、「内的な領域での体験」にさえも属さないものなのだ。
従って例えば、神を感じるとか、自分を超えた存在と一体化するとか、天地一杯に広がるとか、光に包まれるとか、ある種人の憧れを誘うようなこの手の体験でさえも、体験であるというただそれだけの理由で悟りに該当しないと断言できる。体験と名の付くものは全て、一つの例外もなく、その中身に関係なく、悟りに該当しないと言い切れるのだ。
このように申し上げると、ずいぶんと辛辣(しんらつ)な物言いのように思われるかも知れないが、前述のような体験は禅宗系の人の手にかかったら、もっと辛辣な言い方で斥けられるのは必定である。分かってる人は分かってると思うが、前述のような体験は魔境として扱うのが、彼らの流儀なのだから(その裏には、悟りと悟りならぬものとを取り違えさせてはならないという彼らなりの老婆心が隠されてはいるのだろうけれども……)。ついでながらその意味において、あのオショーと何かと比較されやすいクリシュナムルティーなんかは、禅僧と似ている。彼は魔境という言葉こそ使わないものの、前述のような体験を悟り(あるいは究極の真理)とは無関係なものとして、歯に絹を着せずに斬って捨てるところが禅僧さながらである。
ではオショーの場合はどうだろうか。オショーもまた彼らと同じように、前述のような体験が悟りに該当しないことを指摘することはあるが、それでも私の見た限りでは物の言い方が彼らほどには辛辣ではない。また、その指摘の頻度も彼らほどには多くない。
彼の説法の目的は誰かも言っていたように、悟りの何たるかを明らかにすることそれ自体よりも、詩的な美しい表現を通して人々の心に悟りへの憧憬を芽生えさせることの方にあったらしいので、必然的にそういう形になったようだ。
これは裏を返せば、説法の目的が悟りの何たるかを明らかにすることそれ自体に絞られた場合には、例えば悟った禅僧やクリシュナムルティーなどのような「アレも違う、コレも違う」式の、辛辣な物言いが多くならざるを得ないってことでもある。
悟りを前述のような「内的な領域での体験」だとばかり思い込んでらっしゃる方々にとって、悟った禅僧やクリシュナムルティーらの本がことのほか理解しづらく、時に違和感や反発さえ感じさせることさえあるのは、そういうわけだからである。「道理でなあ…」と思われた向きも少なくないのではないだろうか。
ところで皆さんは、「悟りは体験ではない」と言える理由をもう察しておられるだろうか。その理由をまだ察しておられない方は、前回私が、話の締めくくりとして申し上げたことを思い出してみられたい。前回私は、話の締めくくりとしてこんなようなことを申し上げた。悟りとは、あらゆる体験の目撃者である真我が一転して自分自身を目撃することである、と。
真我があらゆる体験の目撃者であるってことは取りも直さず、真我はそれらの外に存在しているってことである。前者と後者はイコールでなければならない。何故なら、もしも真我があらゆる体験の外に存在していないとしたら、真我はそれらを目撃できないはずであるから。真我はあらゆる体験の外に存在しているからこそ、それらを目撃できるのだ。
で、真我があらゆる体験の外に存在している以上は道理として、悟りすなわち「真我が自分自身を目撃するという出来事」が起こる場所はあらゆる体験の外でしかあり得ない。あらゆる体験の外こそが悟りの起こる唯一の場所だ。「悟りは体験ではない」と言えるのは、そのためである。
悟りは如何なる意味においても体験ではないので、例えば瞑想などを通して得られる「内的(心的)な領域での体験」と悟りとは別物であり、前者と後者とでは本来ならば分野も異なる。だがご存知かと思うが大きな書店に行くと、前者に関する本も後者に関する本も、「精神世界」とネーミングされた一つのコーナーに仲良く、隣り合う形で並べられているものだ。おかしい、と言わざるを得ない。それじゃあまるで、例えば超常体験とか霊的体験とか神秘体験とか瞑想体験などと呼ばれることもある「内的な領域での体験」と悟りとが、お仲間みたいに見えてしまっていけない。私の希望を言わせていただくならば、両者はそれぞれ別のコーナーに思いっきり引き離して置かれるべきである。なろうことなら両者の間に、太平洋か大西洋かインド洋を挟んで欲しいものだ、とさえ思う。要するにそれぐらい、前述のような「内的な領域での体験」と悟りとは別物なんだってことである。
両者の共通点を強いて申し上げるならば、どちらも肉眼では見えない、ということぐらいだろう。だが、どちらも肉眼では見えない、というところは同じでも、前者が心(より正確には潜在意識)でならば見たり感じたりできるのに対して、後者は心によっても見たり感じたりできないという根本的な違いがある。「内的な領域での体験」は心をもってすれば見たり感じたりすることができるが、悟りときた日には、心をもってしても見ることも感じることもできない、言うなれば「箸にも棒にもかからない」。この両者の違いは大きい。それは、体験というカテゴリーに含まれるものと含まれないものとの違いだとも言える。
(58)に続く
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