心と真我


(58)瞑想の成果と悟りは関係ない

「禅は労して効無し」という言葉を昔、ある本の中で見かけたことがある。
「禅は労して効無し」というのは意訳すれば、禅の修行には如何なる成果も無い、といったところだろう。中々うまいことを言うものだな、と思って覚えていた言葉である。そう言えば、それと同じような意味の言葉として「座禅をしても何かが得られるわけではない、何にもならないのが座禅だ」といったものもありましたね。これは、今は亡き曹洞宗の澤木興道師の座禅に対する捉え方である。
禅が悟りを標榜していることは周知の通りだが、前述の「禅は労して効無し」という言葉に私は、悟りの本質に対する鋭い洞察を感じた。それにちなむ話をこれからしよう。
さて前回申し上げたように、私の見たところ、悟りへの途上にある方々のほぼ全員は悟りというものを、「内的な領域での体験」であるかのごとく誤解しておられるようだ。そしてその誤解とツジツマが合うように、覚者の話を解釈する傾向が彼らにはあるようにも見える。
例えば覚者の言葉としてよく知られたものの中に「悟りは考えることによっては得られない」というのがあるが、彼らのほとんどは直ちにこれを「悟りは感じることによってしか得られない」という風に受け止める。「悟りは考えることによっては得られない」と「悟りは感じることによってしか得られない」とはイコールじゃない可能性があるにも関わらずである。前者と後者を何の思慮もなく結びつけてしまうのは短絡的過ぎるのではないか。前者と後者はイコールかも知れないしイコールじゃないかも知れない、と結論を保留しておくのが、前述の言葉の正しい受け止め方というものだろう。
で、それについての結論だが、前者と後者はイコールではない、すなわち「悟りは考えることによっては得られない」という言葉は「悟りは感じることによってしか得られない」ということを示唆しているのではない。「悟りは考えることによっても感じることによっても得られない」という、より包括的な事実の半面を述べたものが前述の言葉なのである。ちなみに「悟りは考えることによっても感じることによっても得られない」のは何故かというと、悟りが「内的(心的)な領域での体験」ではないからに他ならない。
悟りへの途上にある方々のほぼ全員が「悟りは考えることによっては得られない」と「悟りは感じることによってしか得られない」をイコールとしてしまうのは、悟りというものを「内的な領域での体験」だとばかり思い込んでいるからであるに違いない。
もしもあなたが、感じることを伴う体験すなわち例えば、「何かを体感する」とか「何かとの一体感を感じる」といった体験と悟りとを混同しそうになられた時は、次のように考えていただきたい。
真我とは、この体感、この一体感、この体験の目撃者のことだ。この体感、この一体感、この体験を目撃している側にこそ真我は在る。だから、この体感、この一体感、この体験それ自体は真我の発見を意味する悟りではあり得ない、と。
更に申し上げるならば、瞑想中にあなたが何を見、何を感じ、何を得たとしても、それらを悟りだと思われてはならない。真我はそれらを見る側にこそ在るというのに、どうしてそれらが真我の発見を意味する悟りなんかであり得るだろう。あり得るわけがない。
何かを見たり、感じたり、得たり、掴んだりすることなども含めて、瞑想によってもたらされる如何なる成果も真我の発見を意味する悟りたる資格を持たない。そうした成果の目撃者こそが真我なのだから。
先ほど私は「禅は労して効無し」という言葉を、「禅の修行には如何なる成果も無い」、という風に意訳させていただいたが以上のような次第で、もう少し詳細に意訳し直すとこんな風になる。
「外的(物的)な領域と同じように内的(心的)な領域においてもまた、禅の修行には如何なる成果も無い」
悟りが外的な領域における成果でないことは、悟りの門外漢でも知ってるぐらいによく知られた事実だが、悟りが内的な領域における成果でさえもないってことに関しては、悟りへの途上にある方々の間でもあまり知られてはいないように見受けられるが如何であろう。
いずれにしても、これによっても明らかなのは、内的な領域に新しい体験を求める人の歩む道と、悟りを求める人の歩む道とは本当はコースが違うってことである。「前」の道を歩いておられる方々から見て、「後」の道を歩いておられる禅僧の言葉が異質なものに映りやすいのは、そういうわけだからである。
(59)に続く
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