心と真我


(59)体験や感覚や理解がはじまる前

体験と感覚(感じ)と理解、この三つは、悟りとは関係ないのに関係ありそうに思われやすいもののトップスリーかも知れない。体験と感覚と理解の三つが悟りとは関係ないと言える理由がお分かりだろうか。それについて考えてみよう。
ここに言う悟りとはもちろん「真我が自分自身を目撃するという出来事」のことだが、その意味合いに着目すればお察しいただけるように、悟りは個体としての私の中でではなく、真我それ自身の中で起こるようになっている。この「悟りは個体としての私の中でではなく、真我それ自身の中で起こる…」という事実は、体験と感覚と理解の三つが悟りとは関係ない理由を探る上で、重要な鍵になる。是非覚えておいて下さい。
さてご存知のように、体験と感覚と理解の三つは真我によってではなく、その対極にある個体としての私によって「獲得」されるものである。これら三つが真我によって「獲得」されるなんてことはあり得ない。真我はあくまでも、個体としての私によって「獲得」されたこれら三つを目撃する立場にあるのだから。ということは、真我それ自身の中には如何なる体験も感覚も理解も存在しない、ということに他ならない。この話は例えば、景色を見るための感覚器官である目玉の中をいくら調べても景色は出て来ない、という話と似ている。目玉それ自身の中には如何なる景色も存在しないのと同じように、真我それ自身の中には如何なる体験も感覚も理解も存在しないのである。
悟りが真我それ自身の中で起こることは前述の通りだが、その悟りが如何なる体験や感覚や理解とも関係ないと言えるのは、以上のような理由による。おさらいも兼ねて、ここまでの論を三段論法の形にすると、こうなる。
A、悟りは真我それ自身の中で起こる。
B、然るに、真我それ自身の中には如何なる体験も感覚も理解も無い。
C、ゆえに、悟りは如何なる体験や感覚や理解とも関係ない。
悟りは如何なる体験や感覚や理解とも関係ない、ということは言い換えれば、悟りには如何なる体験も感覚も理解も含まれてはいない、ということでもある。このように申し上げると、「では一体、悟りの中には何があるのか?」といった問いを抱かれる向きもあるに違いない。それに対しては、「体験や感覚や理解がはじまる前の状態が、そこでは続いている」とでもお答えしておきましょうか。難しいかも知れないので、少し解説させていただこう。
何かを体験する前、体験する前、体験する前、体験する前……
何かを感じる前、感じる前、感じる前、感じる前……
何かが分かる前、分かる前、分かる前、分かる前……
何か確かなものとか、「これだ!」と言えるようなものを掴む前、掴む前、掴む前、掴む前……
悟りの中ではこれらの状態が同時に続いている、ということである。
だから……
体験した時には逃している。感じた時には逃している。分かった時には逃している。掴んだ時には逃している。それが悟りというものだ。
(60)に続く
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