心と真我


(61)悟りには理解さえも要らない

この『心と真我』の中でも以前チョロッと述べたことがあったかと思うが、真我による真我自身の発見すなわち悟りを実現する唯一の道は心を脇に置くことである。心を脇に置くことが何故、悟りの実現に繋がるのか? そしてまた、それが何故、悟りを実現するための唯一の方法だと言えるのか? ということに関しては、キッチリ分かってもらうには込み入った話をせにゃならんということもあり、いずれ『心と真我』の続編を書く時にでも取り上げることにしたい。といっても、そのことに関しては当サイトの他の箇所で何度か触れているので、ある程度のことは分かっておられるんじゃないかとは思うのですけどね。
いずれにしても今はただ、心を脇に置くことが悟りを実現する唯一の道なんだってことだけ、念頭に置いといてもらえれば結構である。
ちなみにここに言う「心を脇に置く」は、心の浅い層(顕在意識)も深い層(潜在意識)もまとめて脇に置くということ、簡単に申せば考えたりイメージしたり感じたりする心の働きを全部止めるということである。心という言葉の解釈の仕方によってはそれは、「考えることを止めて感じろ」という意味にも取れなくもないが、ここではそういう意味には取らないでいただきたい。
さて、もっと細かく申し上げるならば、心を脇に置くことの中には悟りや真我についての理解や誤解を脇に置くことも含まれている。だから当然ながら、悟りへの途上にある方はすべからく悟りや真我についての理解も誤解も脇に置かなきゃならないという理屈になる。
えっ、誤解だけじゃなくて理解までも脇に置かなきゃならないの? と思われた方でも、あらゆる想念の出所は心であり、その想念の中には悟りや真我についての理解や誤解も含まれているというところまではお認めになるであろう。心を脇に置くということは具体的には、そういったものも含めて全ての想念を脇に置くということに他ならないのだ。
とはいえ、理屈通りには中々行けないのが人情というものでもある。理屈がどうであれ、悟りの実現を願っておられる方々からしてみると人情として、悟りや真我についての誤解はともかく、それらについての理解までも脇に置くということに対しては抵抗があるかも知れない。何故なら、何かを実現するためには、実現しようとしている対象のことを前もってよく理解しておかねばならない、というのがこの世界における我々の常識であるから。
この世界における我々の常識では、実現しようとしている対象のことを前もってよく理解しておかないと、言い換えるならば「自分が今実現しようとしているものは何なのか」ということを前もって明確にできてなかったら、それの実現に向けて何かを始めることが出来ない。例えば会社を興したいのであれば、興そうとしている会社はどういうものなのかとか、どういう会社にしたいのかといったことを、前もって明確にできてないと何も始められないし、また例えば映画を作りたいのであれば、作ろうとしている映画はどういうものなのかとか、どういう映画にしたいのかといったことを、前もって明確にできてないとこれまた何も始められない。この世界における我々の常識では、万事そうなっている。
だが銘記しておいていただきたいのは、我々が持つことのできるあらゆる実現目標の中で悟りにだけは前述のような常識が当てはまらない、ということである。悟りにだけは前述のような常識が当てはまらない理由がお分かりだろうか。それは悟りというものが、現実世界という夢からの覚醒をも意味していることと深く関係している。
悟りは捉え方によっては現実世界という夢からの覚醒のことでもあるので、当然ながらそれは現実世界という夢の外側、言うなれば我々が関与できない領域で実現されるようになっている。それに対して例えば、会社を興すとか、映画を作るとか、何かの技をものにするといった悟り以外の実現目標の場合はどうかというと、それらは皆現実世界という夢の内側、言うなれば我々が関与できる領域で実現されるようになっている。このように我々が持つことのできるあらゆる実現目標の中で、悟りとそれ以外のものを見比べてみると、前者が我々が関与できない領域で実現されるのに対して、後者は我々が関与できる領域で実現されるという根本的な違いのあることが分かる。
我々が持つことのできるあらゆる実現目標の中で、唯一悟りにだけは前述のような常識が当てはまらない理由はそこにある。すなわち他の実現目標と違って、悟りだけは例外的に我々が関与できない領域で実現されるようになっているので、悟り及び悟りと密接な関係にある真我のことなどを我々がどれだけ理解し明確にできたとしても、悟りの役には立てられないということである。
「コチラ」に居る我々がどれだけ悟りや真我のことなどを理解し明確にできたからといって、「アチラ」で起こる悟りに役立てられる道理は無いのだ。喩えとしては少々ズレてるかも知れないが、夢の世界で貯めたお金を現実の世界で使える道理は無い、というのと同じぐらい、それには間違いがない。
我々が持つことのできるあらゆる実現目標の中で、悟りにだけあるこの特殊事情については、どれだけ強調しても強調し過ぎるということはないだろう。
ということで、悟りへの途上にある全ての皆さんに申し上げたい。悟りや真我についての誤解と同じように、それらについての理解をも脇に置くということに対して、あなたが躊躇しなければならない理由などどこにも無いのですよ、と。
悟りや真我についての理解も誤解も脇に置くってことは、悟りや真我のことに関しては全くの白紙状態になるということであり、訳が分からなくなるということでもあるが、それでよいわけである。思いっきり、そうなってください。思いっきり訳が分からなくなってください。悟るのはあなたじゃなくて、真我それ自身なのだから。これは、夢から覚めるのは夢の中のあなたじゃなくて、寝床に居るあなたなんだって話とも似ている。悟りにあなたの出番がちょっとでもあると思ったら大間違いだ。
(62)に続く
TOP INDEX BACK NEXT