心と真我


(62)悟りや真我を語るわけ

「悟りや真我についての理解は(真我の発見を意味する)悟りの役には立たない」ということを前回私は申し上げた。これに対して「それならばお前は何故、悟りや真我について色々なことを今まで語り続けてきたのだ?」てなことをお思いの向きもあるのではないだろうか。いや、ほとんどの方がそう思っておられるかも知れない。
で、その問いにお答えしたいのだが、その前に逆にこちらから皆さんにお尋ねしたいことがある。そんなに僕をいじめてどうすんの? じゃなくて……もし仮に、私が今までしてきたような悟りや真我についての説明を一切抜きにして、いきなり冒頭のごとき物言いすなわち「悟りや真我についての理解は悟りの役には立たない」てな物言いをされたとしたら、あなたは納得できるだろうか? ということである。どうですか皆さん。ひとつ、そういう状況を想像してみてください。根拠や裏づけになるようなものを一切示さず、いきなりああいうことを言われても、納得しづらいってのが普通なんじゃありませんかね。
悟りとは何か、真我とは何か、ということについて、私が順々と説明し続けてきた経緯があったからこそ、それを踏まえての「悟りや真我についての理解は悟りの役には立たない」という一言に、あなたは少なくとも大きな違和感を感じないで済んだに違いない。言い換えるならば、悟りや真我について私が今まで説明を重ねてきたことが、その一言の根拠や裏づけになっているはずだってことである。
それにしても、「悟りや真我についての理解は悟りの役には立たない」という一言を人様に納得して受け入れていただくには、その前に悟りや真我の何たるかをあるところまで詳細に説明しておかねばならないってのもえらく逆説的ではありますな。まあ私としてはその方が、書くネタがあって助かっていると言えば助かってはいるのだけれども。
さて以上のような話をすると、次のようなさらなる問いを抱かれる向きもあるかも知れない。「たったそれだけのためにあんたは今まで、悟りや真我の何たるかを語り続けてきたわけか?」
たったそれだけのためにってことは、もちろんない。私が今まで悟りや真我の何たるかを語り続けてきたのは実は、それを通して最終的に、悟りではないもの、あるいは真我ではないものを浮かび上がらせるためでもあったのだ。「悟りや真我についての理解は悟りの役には立たない」ことが分かっている私としては、悟りや真我の何たるかを明らかにすることそれ自体にはあまり意味を感じない。が、そのことを通して最終的に、悟りや真我ではないものを浮かび上がらせることができるという側面には大きな意味を感じるのである。もう少し正確に申せば、そのことを通して悟りや真我に対する皆さんの知的好奇心をある程度満たしてあげられるという側面にもいくらかの意味を感じないわけではない。そういう部分も確かにある。が、前述のような側面すなわち、そのことを通して最終的に、悟りや真我ではないものを浮かび上がらせることができるという側面にはそれ以上の、もっともっと大きな意味を感じる、ということである。悟りや真我ではないものを浮かび上がらせるってことはとどのつまりは、人々の間にあるそれらに関する誤解をなくすってことでもあるわけだが。
これを具体的に理解してもらうためにここで、人々の間にある悟りに関する誤解の中で代表的なものの一つを引き合いに出しながら話を続けさせていただこう。人々の間にある悟りに関する誤解の中で代表的なものの一つは「悟りは内的な領域における体験である」というものだ。ここに言う内的な領域における体験とは、心の深い層(潜在意識)で何かを見たり感じたり得たりすることとおおむね同じだと思ってもらって構わない。悟りへの途上にある人の大半以上が、悟りをそういうものだと誤解しているように私には見受けられるのだが如何だろうか。
悟りへの唯一の道は「心を脇に置くこと」であるのは既にご承知の通りだが、その「心を脇に置くこと」の妨げとなるものの中で、前述のような誤解は最も根深いものの一つだと言える。何故なら、悟りへの途上にある人が前述のような誤解を持っているとごく自然な成り行きとして、あるいは人情として、内的な領域で何かが起こるのを期待したり、探したりする心の動きがどうしても出てしまうものだから。こういう心の動きというものはアカンと頭で分かっていても、そう簡単に押さえ切れるものではない。そんな中で、心を脇に置こうったって無理な話だ。たとえ「できたら三万やる!」といわれても、できないだろう。
だが理解しておられるだろうか。私がこれまでしてきた、悟りや真我についての話の中には、前述のような誤解をなくす効果のあるものが含まれていることを。重要なことでもあるので、おさらいも兼ねてそれをザッとまとめておこう。
@我々が今生きているこの世界は一つの夢であり、いわゆる瞑想などを通して得られる内的な領域における体験というものもまた、その夢の一部に他ならない。
Aそしてそれには、真我という目撃者が存在する(だからこそ、我々はそれを認識できるのだ)。
B悟りとは、その真我という目撃者が自分自身を目撃するという出来事を指している。
如何であろう。こういうことが分かると、悟りを内的な領域における体験であるとする見方はなくそうとしなくても自然になくなるのではないだろうか。というより、そうなるしかないわけである。それは例えばの話、クジラを魚だと思っていた人が勉強して、クジラは哺乳類であるということが分かったら、もう以前のような見方でクジラを見ることは催眠術でもかけられない限りできなくなるのと同じである。
この例を通して私が申し上げたいのは、悟りや真我の何たるを私が今まで語り続けてきた本当の狙いは悟りや真我の何たるかを明らかにすることそれ自体にあるのではなく、それを通して最終的に、悟りや真我ではないものを浮かび上がらせ、悟りや真我に対する皆さんの誤解をなくすことの方にこそあるのだ、ということに他ならない。
その点を踏まえて、ここで皆さんにお願いしたいのは、今までの私の話に深入りして、「悟りとは何か?」「真我とは何か?」ということを過度に追求したり掘り下げたりする方向に向かっていただきたくない、ということである。そういうことを納得ゆくまで追求したり掘り下げたりしようなんて気を起こした日には、出てくる疑問は後を断たずキリが無い。そして、気がついたら人生のたそがれが来ちゃってたなんてことにもなりかねない。
従って、例えば前述の話の中に「真我という目撃者」なんていう言い回しが出てきたが、それに対して例えば「目撃は何故可能なのか?」とか「目撃のメカニズムはどうなっているのか?」といった疑問が湧いたとしても、深く追求せず、分からないままにしておいてください、と申し上げたい。
繰り返しになるが、前述の話は「悟りは内的な領域における体験ではない」ということを納得して受け入れることだけのために使ってもらえれば、それで十分なのである。さらに申せば、使い終わったらそんなものはサッサと忘れていただくのが一番だとも言える。それでこそ正に、悟りへの途上にある方々に私がお勧めしているあの状態すなわち「悟りや真我についての理解も誤解も脇に置いた」状態になれるのだから。
(63)に続く
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お知らせ

この『心と真我』は後三回ぐらいで完結させようと思っています。三回とは言わずに三回ぐらいと言うことで少し流動的にしてあるわけわけなんですけれども。
完結の話が出たことで皆さんの中には、以前私がしたお約束を思い出された向きもあるかも知れません。お約束とは、「即効で悟りの世界を垣間見る方法」の公表に関することです。
大分前、この『心と真我』の中で私はこんな風にお約束しました。『心と真我』が完結し、「悟談」のコーナーで未完のまま放置されている二つの文も完結したら、昔私が開発した「即効で悟りの世界を垣間見る方法」を当サイトにおいて公表いたします、と。
悟りへの唯一の道は心(顕在意識のみならず潜在意識までも含めた心)を脇に置くことである、というかねてよりの私の持論からもお察しいただけるかと思うが、その具体的な中身は「即効で心を脇に置く方法」と言い換えてもよいようなものです。私にとって「即効で悟りの世界を垣間見る方法」と「即効で心を脇に置く方法」とはイコールなのです。
「即効で心を脇に置く方法」なんて申し上げると、ずいぶんと便利な方法のように思われるかも知れませんが、これには便利な面ばかりではなく難点もあります。何かと言うと、「一度この方法を実践したら後は放っておいても心が脇に置かれた状態がずっと続くってわけではない」という点です。これは言い換えるならば、あなたが自覚的にこの方法を実践している間は心は脇に置かれているが、それを止めた途端に心はまた元の状態に戻ってしまう、ということでもあります。
従って、ここに言う「実践」をボタンを押す行為になぞらえて申し上げるならば、もしもあなたが心を脇に置いた状態を例えば一時間保ちたいのであれば、あなたは一時間ボタンを押していなければならないわけです。それが、くだんの方法の限界だとも言えます。
今の今になってそんなことを言うのか、と思われるかも知れませんが、でもねえ皆さん、ここでちょっと心を脇に置くことの難しさを考えてみてください。それを考えれば前述の方法の貴重さがお分かりになるんじゃないでしょうか。こういう話もまたその時にしたいと思います。